3月29日、『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第1弾、1959年編が発売された。その中の記事を時々掲載します。 
『よみがえる1958年─69年のプロ野球』1959年編表紙
ベンチで倒れて失踪?
球団創設以来、最高順位が1954年の4位と低迷が続いていた近鉄パールス。前年の58年は29勝97敗4分けで最下位に終わり、パ・リーグのお荷物球団とも言われていた。
千葉茂監督就任は大きな話題となったが、いくら監督を変えても前年、29勝しかできなかったチームがいきなり強くなるわけではない。
オープン戦は9勝11敗2分けと成績だけを見たら、まずまず。ただし、これはキャンプ中に行い、『最下位決戦』とも言われた大洋(4年連続セの最下位)との4連戦4連勝は含まれる。除けば5勝11敗2分けだから、いつもどおりの近鉄とも言え、千葉監督の表情もさえなかった。
シーズンが始まってもとにかく勝てない。平和台での対西鉄連敗のあと、
大津守の好投で初勝利もそこから4連敗。5月26日、32戦を終えた時点で7勝25敗となっていた。
千葉監督がいらいらしたのは勝敗だけではない。いくら負けても「負けて当然」という空気が流れる負け犬気質がたまらなく嫌だった。
他チームからは完全に格下扱い。それも当たり前だろう。南海のエース、
杉浦忠が先発する試合になると、打率を下げたくないのか「腹が痛い。風邪を引いた」と欠場する主力打者もいた。
もちろん、千葉監督はあきらめず、猛牛のように突進し続けた。佐伯勇社長に1時間半待たされながら直談判し、他球団に見劣りした選手の待遇改善を嘆願。汽車移動を三等から二等にし、宿泊の旅館もよくしてもらった。
選手に対しては、戦う姿勢を要求した。「タイムリーエラーをしたら、タイムリーヒットで返せ」と言い、信賞必罰、あめとむちでチームを引き締め、選手を鼓舞した。
ただし、まさに笛吹けども踊らず、勝ったときはまだいいが、負けが続くと、すぐ捨て鉢なプレーが目立った。
それでも千葉監督は投げやりにはならなかった。試合前、しつこいくらい繰り返したのが「熱」だ。
「熱がなければ、少しくらい技術的にうまくてもダメだ。人間、ほとばしるようなファイトを捨てたらおしまいだ。それがゲームを面白く見せることだ。ゲームを面白く見せるには、熱を持ってゲームにぶつかることだ」自ら態度で示したのが、5月30日の東映戦(駒澤)だ。東映の
山本八郎のラフプレーに近鉄の
加藤昌利捕手が応戦した試合である。すぐさま東映の選手が飛び出したが、近鉄の選手は互いに顔を見合わせ、動かない。カッとした千葉監督は「やっちまえ!」と言って、自ら先頭に立って突進した。
しかし、その後も好転せず、6月3日から7連敗。2勝を挟み、3連敗のあと、6月18日の南海戦(日生)では、試合前に「この前の阪急戦(西宮の4連戦で2勝2敗)あたりからチーム力は星空といかなくとも、成層圏くらいまでは上がって来たな。宇宙旅行にはもう一歩だが、成層圏飛行ならできそうだ」と千葉監督らしいコメントをしていた。しかし、その試合中だった。くらくらっとめまいがしてベンチから崩れ落ちた。貧血だった。
「大丈夫、残る」と言ったが、医師に止められ、そのまま担架で運ばれ、病院へ。その後、自宅に戻った。
倒れた理由は間違いなく過労とストレスだ。豪放なようで繊細。感性豊かな性格は、こうなるとマイナスに働き、細かなところが気になった。うまくいかないストレスもあったと思うが、加えてマジメさだ。選手のスカウト、球団との待遇改善の交渉。八面六臂で休むこよなく動き続けた。不眠に悩み、酒は飲めないほうだが、ウイスキーを何杯飲んでもまったく酔えなかったという。
翌日、長堀橋のマンモスアパート10階に記者が詰めかけると、千葉監督の部屋には『面会謝絶 千葉』と見慣れた千葉監督直筆の札がかかっていた。しかし、千葉監督はわざわざやってきた新聞記者を追いはらうことなく、部屋に招き入れ、質問に答える。その様子を見た医師は、これでは安静が保てないと入院させ、今度は本当の面会謝絶とした。
以後、
林義一が代理監督になり、6月24日からは5連勝もあったが、その後も低迷から抜け出すことはなかった。
不思議なのは千葉だ。それまで張り詰めた生活をしていた反動なのか、糸の切れた凧のようになってしまった。人目をさけ、軽井沢、箱根で静養し、その後も自宅にこもってしまった。シーズン閉幕まで指揮を執ることもなく、チームの納会にも参加していない。
最終成績は39勝91敗3分け。2年連続ダントツの最下位だった。