面倒見のいい人だった
具合が悪いというのは聞いていたが、今も実感がない。
6月16日、カープの先輩・北別府学さんが亡くなられた。
長い闘病生活を送られたが、思い出すのは、若いころの優しい笑顔だ。
球は決して速くないが、スライダー、シュートを使い、精密機械のように
達川光男さんの構えたミットに収まる制球力が武器だった。
安定感のある頭脳的なピッチングで、通算213勝。まさにカープのスーパーエースだった。
俺は1981年に
広島カープに入ったが、当時の選手寮・三篠寮は15、6部屋があって、北別府さんと
高橋慶彦さん以外は、みんな2人部屋だ。
大きな建物ではなかったので、かなりの密集度だった。
待遇は一軍と二軍がはっきりしていて、二軍は夜10時30分が門限。一軍はナイターもあるし、寮長に話を通しておけば、朝帰りしても怒られなかった。
二軍時代はずっと早く一軍に上がって自由になりたいと思っていた。
2年目の7月に一軍に上がったころから、北別府さんに声を掛けてもらい、飯に連れていってもらうようになった。
寮でも、
「カワ、部屋に来いよ」
と言ってくれ、北別府さんの部屋でよく酒を飲んだ。寮は基本禁酒だったが、北別府さんの部屋には冷蔵庫があり、特例のようになっていた。
ピッチングについても、細かいアドバイスをいろいろしてもらった。ものすごく面倒見のいい方だった。
3年目の自主トレで北別府さんの都城の実家に行ったことがある。
家に泊めてもらったが、昔の農家の家でトイレも外にあった。田舎でもあり、夜は真っ暗でちょっと怖かったことを思い出す。
試合中の夜釣り
そのあと北別府さん、
大野豊さん、俺で先発三本柱と言われるようになったが、いつも俺は三番手だった。
大野さんは抑えに回った時期もあったし、三本柱というより、北別府さんが大黒柱と言ったほうがいいだろう。
この先発3人の共通点が、釣り好きで、よく3人で行った。
一つ北別府さんが「内緒だぞ」と言いながら誘ってくれたのが、広島市民球場でナイターがあるときの夜釣りだった。
当時、先発はあがりの日があって、練習が終わったらベンチ入りせず、家に帰っていいことになっていた。
北別府さんはそういうとき、「おい、カワ行くぞ」と言い、一緒に大野寮の近くにあったマリンパークに行った。
そこに北別府さんのクルーザーがあり、それに乗って宮島沖で夜釣りをする。メバルが多かったけど、時々鯛が釣れることもあった。
いつもラジオで試合中継を流し、11時くらいに家に帰ったが、
大下剛史さんにばれたら大目玉だったかな。
ただ、それもメリハリ。
練習では本当に妥協しない。全体練習以外に、自分でその日にやる練習メニューがあって、ほかの選手が誰もいなくなっても、それをこなすまでは絶対にやめなかった。
試合中もそうだし、マスコミに対しては、仏頂面がトレードマークのような人だったが、本当は違う。照れ臭さと、たぶん、周りに弱みを見せたくなかったのだと思う。
あんな優しい人はいない。
仲間たちに向けた、あの笑顔。あれが本当の北別府さんだ。
写真=BBM