元南海-大洋の佐藤道郎氏の書籍『酔いどれの鉄腕』がベースボール・マガジン社から発売された。 南海時代は大阪球場を沸かせたクローザーにして、引退後は多くの選手を育て上げた名投手コーチが、恩師・野村克也監督、稲尾和久監督との秘話、現役時代に仲が良かった江本孟紀、門田博光、コーチ時代の落合博満、村田兆治ら、仲間たちと過ごした山あり谷ありのプロ野球人生を語り尽くす一冊だ。 これは不定期で、その内容の一部を掲載していく連載である。 バレたのは俺たちじゃなかった

『酔いどれの鉄腕』表紙
本の内容をちょい出ししている連載。
今回は南海時代のキャンプでのエピソード。知る人ぞ知る話です。
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当時の南海の春季キャンプは高知の土佐中村と和歌山の田辺が半々だった。
俺は練習が嫌いだったから、隙があれば、さぼろうと思っていた。ありがたいことに、土佐中村は海が近くなんで、練習グラウンドの近くに防風林があったんだ。
木陰に行くとグラウンドからは見えなくなる。きょうはかったるいなと思ったら、「ちょっとマラソンしてきま~す」とか言って、タバコとミカンを持って木陰に行ってさぼっていたよ。
野手はそうもいかんけど、投手は投げるか走るかがほとんどだから、ごまかしやすいんだね。
宿の周りも松林と畑くらいしかなくてね。練習が終わって出掛けようと思っても、おばちゃんというより、おばあちゃんがやっているような小さなスナックしかなかった。
覚えてるのは、練習が終わったら、宿でひとっ風呂浴びて、みんなで風呂場の前の畑に真っ裸で行ったこと。
まだ明るいから日干しね。開放感があって気持ちよかったな。今なら、サウナのあとで整えてるようなもんだよね。
後半の田辺はブルペンの裏がミカン山で、休みの前日にはマラソンで駆け上がる練習があった。
あれは3年目くらいだと思うけど、俺は走るのは得意じゃなかったし、疲れるのは嫌だなと思ってたらたらやっていたら、ミカン農家の人の軽トラが通ったから「乗せてもらえる?」って頼んで手抜きをしたことがある。
いいおじさんでね、乗せてくれただけじゃなく、タバコまでくれた。
途中でエモ(江本孟紀)がいて「お~い、エモ」と声を掛けたら、「俺も乗せてくれ」というから2人で乗って、最後のほうだけ降りて走った。野村さんが「おお、ミチも完走したのか」と驚いてたから、「ハイ」って、いい返事をしておいたけどね。
次の日、全員集合さ。そこで野村さんが怖い顔して「マラソンさぼって、トラックに乗ったやつがいる。出てこい!」って。
仕方ねえな、なんでバレたのかなと思いながら出たら、エモも出た。ああ、2人でこっぴどく怒られるなと思っていたら、そこから島野(
島野育夫)さんとか先輩がゾロゾロと何人も出てきたんだ。
ムチャクチャ怒られて、「お前ら大阪に帰れ!」と言われたけど、野村さんの秘書みたいな人と一緒に謝りに行って、何とか許してもらった。
実際には俺とエモの名前は出てなかったらしい。バレたのは島野さんたちで、山の上にあったごみ処理場へ行くトラックの後ろにつかまって上がったみたいだね。ユニフォームを着ていたから、街の人が電話したんだって。「南海の背番号×の人がトラックにつかまっています。危ないからやめさせたほうがいいですよ」って親切心からね。