7月31日、『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第4弾、1961年編が発売される。その中の記事を時々掲載します。 『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1961年編表紙
鶴岡監督はどうしていたか?
この年、パ・リーグのみだが、投手酷使を危惧する中澤不二雄会長の強い希望で決まったのが、1人の投手の投球回数を290回以内とするものだ。成文化されたわけでも罰則のあるのでもない。
これに対し、南海の
杉浦忠は「やってみなくては分かりませんよ。僕は290イニング以内は経験ないので」と話している。
入団4年目、これまでの投球回は299、371.1、332.2だった。
実際、この年のパがどうなったかといえば、290イニング以上は、
稲尾和久が404回、
土橋正幸が393回、
久保田治が313回。
61年のパは140試合だが、前年は130試合制で290イニング以上は5人。多少はルールを考慮したと言えるだろう。
特に注目は杉浦だった。
鶴岡一人監督は非常にマジメな方でもあったので、おそらく規則を破ることはないだろうと言われたが、9月5日を終えた時点で241.2回。東映との激しい優勝争いもあり、残り試合を考えれば290イニング超は濃厚だった。
結果的には右腕の血行障害で離脱。以後の登板はなかった。
イニング上位の3人は、この順番で防御率の上位3人でもある。稲尾1.69、土橋1.90、久保田2.16。これだけ抑えたら監督も使いたくなる。
ただ、だからと言って投高打低ではなく、リーグ全体の打率は.248で3割打者は7人、2割9分以上が14人だった。
全体に打撃技術が上がっていたが、それでも抜きん出たエースは抑えていた、ということであろう。