突然すごい剣幕で怒られた

表紙
現役時代、
中日ドラゴンズ、
西武ライオンズ、
千葉ロッテマリーンズで活躍した外野守備の名手・
平野謙さんの著書『雨のち晴れがちょうどいい。』が発売された。
両親を早くに亡くし、姉と2人で金物店を営んでいた時代は、エッセイストの姉・内藤洋子さんが書籍にし、NHKのテレビドラマにもなっている。
波乱万丈の現役生活を経て、引退後の指導歴は、NPBの千葉ロッテ、北海道
日本ハム、中日をはじめ、社会人野球・住友金属鹿島、韓国・起亜タイガース、独立リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスと多彩。
そして2023年1月からは静岡県島田市のクラブチーム、山岸ロジスターズの監督になった。
これは書籍の内容をチョイ出ししていく企画です。今回は
星野仙一さんとの若手時代の思い出話です。
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ドラゴンズ時代、よくも悪くも、なぜか僕の節目にいたのが星野仙一さんです。以下は仙さんと書かせてもらいましょう。
まず、1981年、一軍に定着するきっかけが、仙さんが投げていたオープン戦でした。二死二塁でセンターの僕の前に打球が来て、低いボールでホームにダイレクトで返し、アウトにしたシーンがありました。
仙さんは「俺がホームのバックアップに向かう前に、もうボールが来ていてびっくりした!」と褒めてくれ、
近藤貞雄監督も「こんなすごい守備をするヤツを一軍に残さんわけにいかないやろ」と言っていたそうです。
さらに続く1982年、僕は開幕の
広島戦(広島。4月4日)に二番・センターのスタメンで出してもらい、先発の
北別府学の真ん中に来た球を、真っすぐかと思って振ったら、スライダーで右ヒザに当たる自打球になりました(左打席)。そのあと守りには行ったのですが、帰ってきたら痛みがもう我慢できず、自分から言って代えてもらいました。
ベンチ裏でアイシングしていたら、仙さんが来て、「お前、何をしているんだ! せっかくスタメンのチャンスもらっているのに自打球くらいで休んでどうする!」と、ものすごい剣幕で怒られました。兼任コーチではありましたが、向こうは現役の時代です。
「なんで俺、この人に、こんなに怒られているんだろう」と思いながらも、まだ一軍半の男ですし、「ハイ」としか言えませんでした。
自転車のチューブを巻いて
ただ、はっきり言えば、かな~りムカつきながらも「それもそうだな」と思い、それからは多少のケガでも無理して出るようになりました。仙さんに言われていなければ、そういう『出る、出る』の選手にはならなかったと思います。
ヒザを痛めたあとは自転車のチューブを巻いて固定し試合に出ていました。今の人は不思議に思うかもしれませんが、昔はそうやっていました。僕は坐骨神経痛があったので、それもチューブを巻きつけてやっていました。あまりやるとうっ血するし、いい加減なやり方ではありますが、なんとか動けるようにはなります。
次の試合は、自分から「出させてください」と言って出場し、
阪神の
宇田東植さんからプロ初ホームランを打っています。狭いナゴヤ球場でしたが、左で打ち、ライトスタンドギリギリです。
田尾安志さんが一塁ランナーで、入るわけがないと思ったのでしょう。全力疾走し、三塁コーチに言われて、やっとゆっくり歩いたと、あとで聞きました。
仙さんには何度も怒られました。怒られても仕方がないことばかりで、とんでもなく間違えたことは一度も言っていません。
ただ、時々、「なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないんだ!」と思って顔に出てしまうときもあり、あとで触れますが、結果的にはドラゴンズを離れることにつながってしまいました。