『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。 
『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙
三振を取るだけで精いっぱいでした
今回は62年編から怪童・
尾崎行雄の序盤戦についてだ。
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水原茂監督が就任2年目の優勝に向け、自ら動いて獲得したのが、浪商高の怪童・尾崎行雄だった。
夏の甲子園で優勝投手となったあと、高校2年生で中退し、17歳で入団した快速球右腕。キャンプで水原監督は「高校時代のフォームでやらせろ。決していじるな」とコーチに指示した。
公式戦の初登板は開幕2戦目の4月8日、この年から本拠地となった神宮での大毎戦ダブルヘッダー第1試合だった。
3対3と同点で迎えた10回表に登板。オープン戦では3勝を挙げていたが、公式戦はまた違う。しかも相手は12球団一の破壊力を持つと言われた『大毎ミサイル打線』だ。
しかし、尾崎はまったく緊張した様子もなく、ほぼ速球のみで二番からの
葛城隆雄を投手ゴロ、
榎本喜八、
山内和弘(7月から一弘)を三振に打ち取り、その裏、東映打線が1点を加え、初勝利も転がり込んだ。
試合後、「最初はぼうっとしてました」と初々しく語った尾崎だが、そのあとの笑顔ながらの言葉に記者が驚く。
「三振を取るだけで精いっぱいでした。特に山内さんですね。新聞に僕のことを大したことないと書いてある記事があったんで、絶対三振を獲りたいと思って。山内さんは日本一の打者だから、その人から三振を取るのは面白かったです」
この日、尾崎の球を受けた捕手の
種茂雅之は、引退後の取材でこう話している。
「速さだけなら僕がコーチ時代に受けた阪急の
山口高志もすごかった。でも、1年目の尾崎は球威が違いました。僕の野球人生の中で、ボールの勢いでミットが止まらなかったのは尾崎だけです」。
そのまま無傷の6連勝。手ひどくやられたのが西鉄だった。
4月16日、後楽園の試合では6回から登板し、4イニングで8奪三振。29日には平和台でのダブルヘッダー第1試合で再び6回から登板し4イニング打者12人から10奪三振。しかも7回からは8連続三振だ。試合後、最後の一人から取っていれば日本タイ記録と聞き、「え、ほんまですか。ちっとも知らんかった。えらい損したわ。まあええわ、またチャンスがありますやろ」と言って笑った。第2試合も7回から登板し5奪三振、この3試合すべてで失点はない。
4月30日時点で5勝を挙げ、防御率0.32、27回3分の1を投げ、45奪三振だった。
バッターの声を少し拾ってみよう。
「球は速いが態度が悪い。でも、いつか絶対打つよ。17歳に抑えられてはプロの恥だ」は西鉄の兼任助監督・
豊田泰光。南海の
野村克也は「大して速くないような気がするがな。まあ、俺なんかとは契約金が違うから、打ったらいかんだろ」とボソリ。尾崎の契約金は4000万円、テスト入団の野村は0円だった。