『よみがえる1958年-69年のプロ野球』第5弾、1962年編が9月28日に発売。その中の記事を時々掲載します。 
『よみがえる1958年-69年のプロ野球』1962年編表紙
やっぱり捕手のほうがええわ
今回は1962年編に入りきらなかった
野村克也さんのコンバート話。
77年秋、南海の監督を解任され、退団。その後、生涯一捕手を座右の銘とした野村さんが、一塁で4試合、外野で2試合に出場した年でもある。
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5月6日の東映戦(大阪)で南海の一塁手のハドリが左手首にデッドボールを受けた。
このとき南海・
鶴岡一人監督は、野村に「次の試合は一塁を守れるようにしておけ」と指示。さらに「外野もよう練習せえよ」と加えた。
このため野村はキャッチャーミット、ファーストミット、グラブと3つを用意し、試合前練習では外野でノックを受け、8、10日と2試合連続一塁スタメンで出場(阪急戦)。野村は前年、故障の治りかけに一塁を1試合守ったが、それ以外はすべて捕手だった。
さらに続く13日の東映戦(後楽園。この時期は雨で試合中止が相次ぐ)では、ハドリの復帰もあり自身初の外野(ライト)スタメン。これが初の外野守備だった。
打球が飛んできたのは2度。一度はヒットだったが、もう1本のフライは無難に捕球し「恥をかかずにすんだわ」とほっとした様子だった。
この試合、打っては3号ホームラン、最後、
杉浦忠が登板すると捕手に戻って好リードで勝利に貢献している。
実は野村の捕手からのコンバートはキャンプからの構想でもあった。
鶴岡監督は「肩も弱くなってきたし、いずれは捕手から外さねばならん。そのほうがあいつの財産を長持ちさせることになり、チームにとってもプラスになる」と言い、連日、外野守備練習させていた。
それでも実際には数年先と鶴岡監督も考えており、シーズンに入れば捕手をしていた。しかし、打撃不振もあってかリードに精彩がなく、「野村、引っ込め」と味方ファンからヤジが飛ぶようになっていた。
鶴岡監督にしたら気分転換の意味もあってのコンバートだった。
この試合のあと野村は「やっぱり捕手がええわ」と言っている。野村自身もいずれは違うポジションと思っていたようだが、おそらくそれは一塁手だったはずだ。しかし、ハドリの存在もあって空いていたのは外野だけ。
「(捕手をしていて)のろのろしたり、へまばっかりと言われたが、外野でならなおさら出てくるよ。全然やったことないんやから」とボヤいたように「自分は外野手向きじゃない」と思ったのではないだろうか。
その後、野村のコンバートは立ち消えとなったが、ハドリの負傷が深刻なものなら一塁定着の可能性も十分あった。プロ野球の歴史も違うものになっていたかもしれない。