プロ野球で最初の快挙も

左右両打席から鋭い打球を飛ばしたシェーン
プロ野球で唯一の市民球団として産声を上げた
広島。当初は資金難で戦力が整わないどころか解散の危機もあったほどだった。初のリーグ優勝は創設26年目の1975年。このとき助っ人として打線にいたのが、ともに来日1年目の
ゲイル・ホプキンス、そして
リッチー・シェインブラムだった。後者は、この名前ではピンと来ない人もいるかもしれない。登録名はシェーン。これが西部劇のヒーローにちなんで名乗ることになった登録名だ。
メジャーで普及し始めた人工芝の影響でヒザを痛めていたシェーンを広島に呼んだのはジョー・ルーツ監督だった。ともに入団したホプキンスはロイヤルズ時代のチームメートでもある。ただ、当時の広島には
山本浩二、
衣笠祥雄の“YK砲”もいた。助っ人に求められがちな長距離砲としての活躍だが、シェーンは彼らに続く打順に入り、打線に厚みを持たせている。そもそも、助っ人と言われるのに主砲を担うというのも形容矛盾のようにも思える。従来の戦力に助太刀する、まさに助っ人といえる好打者だった。
この75年は、広島にルーツ監督が初めてチームカラーに現在まで続く赤を採用したシーズン。すぐにルーツ監督は退任したが、
古葉竹識監督となっても赤は継承された。そんな赤ヘル打線で、本来の打線にはなかった存在感をシェーンは放つ。主砲2門、山本も衣笠も右打者。ホプキンスは左打者だったが、シェーンはスイッチヒッターだった。プロ野球で初めて1試合で左右の両打席から本塁打を放ったのがシェーン。「風が強く吹いていた日だった。右打席ではレフトへ、左打席ではライトへフォローの風が吹いていて、とてもラッキーな日だった」と、この快挙を振り返っている。
陽気な性格で、守備位置で帽子から鳩を出すパフォーマンスでもファンを沸かせた助っ人。2015年のインタビューで、シェーンは以下のように語っている。
「不思議と現役のころで思い出すのは、メジャーじゃなくてカープで過ごした2年間なんだ。優勝パレードで、あんなに市民がうれしそうに泣いていた姿は忘れられない。私の最高の思い出です」
写真=BBM