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逆転野球人生

元ドラ1左腕が失踪騒動を乗り越え33歳で巨人FA移籍を決断! 長嶋監督の「メークドラマ」の立役者になった河野博文【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

駒大からドラフト1位で日本ハムへ


日本ハム時代の河野


 1996(平成8)年、ひとりの中継ぎ左腕が、長嶋巨人の「メークドラマ」の立役者となった。

 河野博文である。明徳高時代は、県大会の決勝戦で高知商の“球道くん”こと中西清起と投げ合い、サヨナラ負け。選抜大会の優勝投手だった中西は「甲子園でも苦しい試合が続いたけれど、本当に苦しかったのは高知県大会でしたよ。あいつのいた明徳は強かった」とライバル河野の実力を認めていた。

 駒大進学後は、主戦投手としてチームを日本一に導く活躍。背筋力200キロを誇り、鉄柱につかまったまま体を鯉のぼりのように水平に浮かせることができる屈強な“重戦車”は、ストレートと落差のあるカーブでアマ球界屈指のサウスポーと称された。83年日米大学選手権では、大会最多タイ記録の14奪三振の完封勝利を挙げて最優秀投手賞を受賞。記念に贈られたブロンズ像は寮の自室に大事に飾った。そして、日本ハムから84年のドラフト1位指名を受けるのである。

駒大在籍時の84年のドラフトで日本ハムから1位指名された


 背番号18を与えられる即戦力の前評判通り、85年5月1日の西武戦で当時“オリエンタル超特急”と話題の郭泰源と投げ合い、プロ初勝利を初完封で飾る離れ業。この試合の監督賞から、9万円の淡いグリーンのサマースーツを購入した新人左腕は、優勝チームの西武から3勝を挙げるニュー・レオキラーと呼ばれたが、7月下旬には左肩の張りを訴え急失速してしまう。試合を重ねる内に牽制のクセがセットポジションのグラブの位置で見抜かれるプロの洗礼もあった。8月21日のロッテ戦で記録した8勝目を最後に4連敗で閉幕。それでもルーキーイヤーから170.2回を投げ、チーム2位の8勝(13敗)、リーグ9位の防御率4.17と結果を残した。

 2年目以降は、ときにアマ時代に「ノミの心臓」と呼ばれた弱気の虫が顔を出し、勝ち星から見放され、やがて先発だけでなく中継ぎも兼任する便利屋的な立ち位置へ。しかし、4年目の88年には「先発組にいて雨などで登板が流れると、河野本来の力を発揮できない」と判断した首脳陣が、連投の効く河野を一時期クローザーに抜擢する。先発、中継ぎ、抑えとフル回転を続けるうちに規定投球回に到達すると、46試合で6勝5敗9セーブ、防御率2.38の好成績。郭泰源や同僚の西崎幸広らを上回り、最優秀防御率のタイトルを受賞した。

ショックからの逃避行


 年俸は倍増の2800万円まで上がり、私生活では760万円をポンと払い、中古のベンツ190E2・3、16バルブを購入。コードレスホンも発売直後にいち早く導入すると、同じマンションの津野浩の部屋へ遊びに行く際も喜んで子機を持参する憎めない一面も。酒の強さは球界屈指で、原人のように立派な体躯からついたニックネームは“ゲンちゃん”。翌89年は「ブルペンではいい球を投げるのに、マウンドへ行くと別人のようになってしまう」と投手コーチも嘆く制球難に悩まされ未勝利に終わるが、週べ89年10月30日号の河野本人のインタビューによると、キャンプで左ヒジを痛め、かばいながら投げていたので最後まで感覚を掴めなかったという。

「シーズン中、そんなことをいっちゃいけないし、いうつもりもなかったけど、もう、終わったし、いいでしょう。実はずっと、左ヒジが痛かったんですよ。(中略)やっぱり、どうしてもヒジをかばうというのか、ストレートにキレはないし、変化球のコントロールもいまイチどころか全然。さすがに悩みましたよ」

 なんとか不振から脱しようとさらなるトレーニングを積むが、無情にも90年5月24日、東京ドームでの西武戦前の練習で、左アキレス腱断裂の重傷を負ってしまう(……と報道されたが、のちにYouTube『槙原寛己のミスターパーフェクト』に出演した当時の同僚・西崎幸広が「ドームの外野フェンスに誰が触れられるか遊んでいるときにゲンちゃんがアキレス腱を切っちゃった」と真実を明かしている)。すると失意の河野は周囲と連絡を絶って身を隠し、約2カ月間にわたる失踪騒動を起こしてしまうのだ。球団が焦らずリハビリに専念させようと任意引退扱いとしたのをクビ通告と勘違いして、ショックからの逃避行だった。

93年に7勝をマークするなど復活を果たした


 リハビリ生活を経て実戦復帰するも、谷間の先発やビハインド時のリリーフ登板がほとんどで3シーズンも勝ち星から見放される。91年5月6日にはダイエー戦で先発して5回二死まで2対1とリードしながら、試合は無情の雨でノーゲームに。ときにナックルボールの習得に活路を見出そうとしたこともあった。それでも、92年4月21日のダイエー戦で3年7カ月ぶりの勝利投手となる。その後は、チーム事情もあり先発投手として起用されると、93年には5年ぶりの完封勝利をマークするなど7勝を挙げ復活。プロ10年目の94年には6年ぶりの規定投球回に到達して8勝10敗、防御率3.84。30歳を過ぎて、年俸も5000万円の大台に乗り、日本ハムというチームにも愛着はあった。注目を浴びるのが苦手で自分から強く意見をすることもない河野は、居心地のいいこのチームで投げ続けるだろう。周囲の多くの人間はそう思った。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。

長嶋監督も気に入ったキャラクター


95年オフにFA宣言し、巨人へ移籍した


 不思議なもので、人は安定した環境を手に入れると、また新たな刺激を求め挑戦をしたくなるものだ。同じ職場に10年務めた会社員が転職を考えるように、河野もまた11年目を終えた95年オフにFA宣言をする。当時の週べには「こんなチャンスは最後かもしれないから。条件面は満足だけど、お金だけじゃない。気持ちの方が大事。セ・リーグで、やってみたい気持ちはある」という本人のコメントが掲載されているが、実際に日本ハムから提示された年俸は7500万円、巨人は6000万円だった。それでも河野は条件で下回る巨人移籍を選択する(なお、この際に巨人から川邉忠義がNPB初の人的補償選手として日本ハムへ移籍している)。

 河野はトレードマークのモヒカン刈りのまま入団会見に臨み話題になるも、開幕二軍スタート。億を超える好条件で移籍するFA選手とは違い、背番号40の33歳左腕に椅子は用意されていなかった。96年5月26日の広島戦で初登板も、10試合投げて防御率8.76という不安定さで再降格。だが、本人が一番好きという夏場に再昇格すると、7月27日の阪神戦で移籍後初勝利。さらに河野は勝負の8月に大仕事をしてみせる。チームの試合の半分以上の14試合に登板、4勝1セーブ、防御率1.86という獅子奮迅の投げっぷりでセ・リーグ投手部門の8月月間MVPに輝くのだ。連日のようにマウンドへ上がり、夜は「我慢している方がカラダに悪い」なんて豪快に酒を飲み、朝イチでパチンコに並ぶタフガイ。8月に19勝7敗と大きく勝ち越すチームの原動力となり、「ゲンちゃんは、いまやウチの(中継ぎ)エースですから」と絶賛した長嶋監督は河野のキャラクターを気に入り、投手交代の際にも「ピッチャー、ゲンちゃん!」と球審に告げるほどだった。

春季キャンプで河野のピッチングを見守る長嶋監督


 長嶋巨人は首位に最大11.5ゲーム差離されるも、夏場の驚異的な追い上げで逆転優勝。ユーキャン新語・流行語大賞の年間大賞に長嶋語録の「メークドラマ」が選出されたが、その立役者のひとりは、後半戦だけで6勝3セーブを挙げた河野だった。「最後まで充実した気持ちで野球をやれる。巨人に来て良かった」と激動の1年を振り返ったが、実は春先は巨人のあまりのマスコミやファンの数に圧倒され、新しい環境に馴染めないでいた。そんな背番号40に救いの手を差し伸べたのは、同じ四国出身の水野雄仁である。水野の兄が河野と駒大同期生だった縁もあり、行動をともにしてチームに溶け込む手助けをしたのだ。水野はこの年限りで巨人を退団することになるが、河野は「本当にありがたかった」と気遣いに感謝し続けたという。

盗難騒ぎにも“らしい”コメント


 一躍、全国区となったゲンちゃんの移籍1年目は39試合で6勝1敗3セーブ、防御率3.29。テレビ視聴率43.1%を記録した日本シリーズ第1戦ではオリックスイチローに決勝アーチを浴びたが、この年からセ・リーグに新設の「最優秀中継ぎ投手賞」を獲得して、副賞の海外旅行と賞金50万円が贈られた。

 翌97年の年明けには、フィリピン自主トレ中に成田空港に預けていた愛車のベンツ500SLの盗難騒ぎに巻き込まれるが、直後の週べ名物コーナー「GUEST ROOM」で、「あの車は普通の車よりセキュリティーがしっかりしていて、盗むのは並大抵ではありません。合鍵では動かないはずなんですよね。それを簡単に動かしてしまうのは、こう言ったら変ですが、すごいですよね」なんて感心しちゃう人の良いゲンちゃんであった。

 巨人時代は4シーズンで108登板したが、先発機会はなし。これと決めたら、愚直に中継ぎ稼業に専念して生きてみせる。それが河野博文という投手の魅力でもあった。99年オフに巨人から戦力外通告を受け、37歳でロッテへテスト入団するも、左ヒザの故障もあり、翌2000年限りで16年間の選手生活を終えた。

 引退後は、群馬県前橋市で玉ねぎ農家に転身。2016年には、その無農薬玉ねぎを使用した漬物が農林水産大臣賞に輝いた。なお、「げんちゃん玉ねぎ」は長嶋監督も購入したという。

文=中溝康隆 写真=BBM
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