大豊は外国人枠の制約を受けず
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大豊はドラフトを経て入団したため、外国人扱いとはならなかった
日本のプロ野球と、台湾との関わりは深く、そして長い。台湾から来た選手たちで特に鮮烈なインパクトを残したのは1980年代、「二郭一荘」といわれた男たちだろう。この「二郭一荘」とは、
中日の
郭源治、
西武の
郭泰源、そして
ロッテの
荘勝雄という3人の投手のことだ。80年代の後半には、いわゆる“第3の外国人”から台頭した
巨人の
呂明賜、その外国人枠の制約を受けないために球団職員を経てドラフトで指名されて入団した中日の
大豊泰昭ら強打者もデビューした。中でも大豊は、故郷の英雄として巨人の
王貞治にあこがれ、その一本足打法で本塁打の量産に挑んだ姿が印象に残る。ただ、彼らの活躍の前に、果敢に異郷の地でプレーしたパイオニアたちがいた。
台湾の出身というだけであれば、打者として首位打者、投手としてノーヒットノーランを達成した
呉昌征(巨人ほか)が古いが、呉が巨人へ入団したのは37年で、当時の台湾は日本の統治下だった。戦後、ロッテの
三宅宅三スカウトが養子にして話題になったのが
三宅宗源。79年にロッテの練習生となり、81年に選手となった。郭源治も一緒に誘われて入団する可能性があったが、後から誘った中日のほうが熱心で、条件もいいことから辞退したという。三宅宗源は快速球が武器の左腕で、1年目の7月に帰化して外国人枠を外れたが、捕手に怒られるほどの制球難に苦しみ、結果を残せなかった。
一方、外国人枠に苦しめられたのが80年に南海(現在の
ソフトバンク)へ入団した
高英傑と
李来発だ。高英傑が投手、李来発は捕手。高校時代にバッテリーを組んでいた2人は、レッズと契約する可能性もあったが、兵役のため話が消滅、兵役の終了を待って、ほぼ同じ時期に南海と契約した。だが、入団した80年に南海の外国人選手は、この2人を合わせて4人。2人とも外野手に転向したことで同郷の2人が同じポジションで外国人枠を争うことになり、やはり結果を残せないまま、4年で退団している。
選手としての数字に目を見張るものはないが、同胞たちが日本で活躍するための礎を築いた功績は決して小さくない。
写真=BBM