一塁手は打撃では神様だが、守備は…

『月刊プロ野球ヒーロー大図鑑』第2号表紙
1934年12月26日、のちの
巨人軍、「大日本東京野球倶楽部」が創立。2024年はプロ野球90年の節目の年となる。
今回、小社ではプロ野球90年を記念し、歴代のトッププレーヤー1500人超をポジション別に分けた『月刊プロ野球ヒーロー大図鑑』を企画。第2号が4月23日に発売された(一部地域を除く)。
全30巻で基本的にはポジション別にセ、パ1冊ずつだが、数の多い投手のみ、先発右投手、先発左投手、リリーフなど、さらに細分化している。
2号目のテーマは三塁手セ・リーグ編。新発売なのにいきなり本誌未掲載ネタもどうかと思ったが、強打のポジションであるサードで史上最強打者は誰かというテーマで思いついたバッターを書いてみたい。
サードの強打者と言えば、
長嶋茂雄(巨人)、
中西太(西鉄)、
村上宗隆(
ヤクルト)、
落合博満(
ロッテほか)などが挙がるが、ここでは17歳の天才打者について書く。
時は1942年。リーグ打率が.197、首位打者が
呉波(呉昌征)で史上唯一の2割台、.286と完全な投高打低の時代だ。
当時、春季大会、夏季大会、秋季大会と3つがあり、その合計を1シーズンとしていたが、滝川中を中退し、夏季大会から巨人に入団していた
青田昇が9月11日から11月7日までの秋季大会で、なんと打率.389をマークし、秋季大会の首位打者となった。
「それは知っているが、青田は外野手だろ」
と言う人もいるかもしれないが、実は正三塁手・
水原茂が応召したことで、青田は秋から学生時代も経験がないというサードに入っていたのだ。
ただ、急造だけに守備はさっぱり。公式記録は9だが、青田自身は「たしか7試合で20もエラーしたのを覚えている」という。おそらく暴投や取り損ねでも安打と記録されたケースが多かったのだろう。
サード・青田はこの秋だけで、その後は外野に回り、強打の外野手として名をとどろかせた。
守備の悪評については、一塁手の問題もあった。打撃の神様・
川上哲治だ。
青田の手記から抜粋し、引用する。
『当時の一塁手は川上さん。この一塁手も投手からの転向組だ。試合の始まる前必ず「ワンバウンドの送球は絶対に捕らんからな」と宣言される。川上さんも、のちには名一塁手とうたわれる見事な守備をするようになったが、当時のフィールディングときたら、からきし下手くそだった。だいたいが不器用だからワンバウンドの送球など軽快に捕れない。
急造の一塁手と急造の三塁手ではうまい守備ができるはずもない。ワンバウンドを投げれば川上さんは捕らない。
私がワンバウンドを投げまいと力んで送球すれば、とてつもなく高い球を投げたりして、いやはやひどい目にあった。』
どうやら軽度のイップスになったようだ。