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逆転野球人生

オリックスの若き守護神として大活躍も低迷、トレード先の中日で復活した剛腕・平井正史【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

高卒1年目から仰木監督も絶賛


イチロー[左]と肩を組むオリックス時代の平井


 実家のテレビには、野球中継といえば巨人戦しか映らなかった。

 その少年は巨人の槙原寛己の投球を見ては、オレもああいう投手になりたいと願ったという。愛媛県の宇和島市から定期船で10分ほどの九島という離れ島で育った、平井正史である。野球部の練習が遅くなる時は定期船の最終便に間に合わないため父の漁船「平丸」に迎えにきてもらう。そんな環境で育った平井の趣味は釣りで、4級小型船舶の免許も所持。海を愛する男は、いざマウンドに立つと147キロの剛速球を投げ込んだ。宇和島東高では春夏連続で甲子園出場。高校の授業中に机の下に隠して『ノーラン・ライアンのピッチャーズバイブル』をぱらぱらめくり、フォークやスライダーの投げ方を頭の中でイメージした高校球児は、3年時にはプロ注目の大型右腕へと成長する。当初はダイエー入りを熱望していたが、1993年ドラフト会議でオリックスから1位指名を受けると、プロで勝負しようと決めた。

 入団前から剛腕と噂の背番号33が、初めてのキャンプでブルペン入りして立ち投げで軽く投げると、それを見たベテランの山森雅文が「平井はスゴいよ。ボールがピッと伸びるんだ」なんて絶賛。一軍体験として、本拠地グリーンスタジアム神戸でのオープン戦で打者ひとりだけに投げさせた仰木彬監督も「素材は素晴らしい。今年の終盤から来年にかけて、楽しみな投手やで」と開幕40人枠に抜擢した。

 ルーキーイヤー序盤は二軍でじっくり体作りに励み、6月下旬にウエスタン・リーグで投げ始めると6勝0敗、防御率2.62と格の違いを見せつけ、一軍デビュー戦は94年9月10日の近鉄戦だ。同点の9回裏無死満塁という絶体絶命の場面でマウンドへ送られると、村上嵩幸からフォークボールで三振を奪うも、大島公一にサヨナラ犠飛を打たれる。だが、平井は宿舎に戻ると仰木監督から呼ばれて、なんと監督賞を送られた。「これで何か食べてこい」と手渡された封筒には10万円ほど入っていたという。9月15日の日本ハム戦でリリーフとしてプロ初勝利。10月4日の西武戦では先発起用され、5回無失点に抑えた。最速152キロの快速球、フォーク、スライダーに度胸満点のマウンドさばき。この年、鈴木一朗からイチローへと登録名を変更した3年目の背番号51が社会現象となる大活躍を見せたが、仰木監督は「来年の新人王の候補? 最有力でしょう」とマスコミに向けてブレイク候補筆頭として平井の名を挙げた。

獅子奮迅の活躍で95年の優勝に貢献


 年が明けた95年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。オリックスのホームタウン神戸も大きな被害に遭うが、正月に宇和島の伊吹神社で絵馬に「一軍定着と10勝できますように」と書いた19歳が、「がんばろうKOBE」の象徴的な存在となっていく。山田久志投手コーチや山口高志投手コーチは「将来のエース」と先発起用を示唆していたが、仰木監督は抑え不在のチーム事情から2年目の豪腕をクローザーに抜擢することを決断。イチローに続く仰木マジックの第2弾と話題になり、『週刊ベースボール』95年4月24日号には「大胆不敵! 若き速球王の知られざる素顔に迫る!! その名はジョーカー! 鮮烈ストッパー誕生の衝撃」という平井の特集記事が組まれている。開幕戦で球界最年長投手の佐藤義則からの“親子リレー”で、8回からの2イニングを無失点に抑え勝利投手に。「並の心臓じゃないよ。去年の近鉄戦の満塁の場面でもそうやったが、ハートの強さはイチロー並みや!」と興奮した仰木監督は、十代の新守護神を開幕から3試合連続で投入。その後も、イニング跨ぎやロングリリーフも当たり前という現代の球界の価値観では明らかな酷使だが、仰木はそれだけ平井の素質に惚れ抜いていた。

 マウンド上の背番号33は、好調時は手がつけられず、「調子のいい時の平井のボールは、プラットホームで新幹線が通り過ぎるのを見るような迫力がある」(『サンデー毎日』95年12月31日号)と相手打者に恐れられた。近鉄のラルフ・ブライアントに対して157キロの剛速球でねじ伏せるピッチングは圧巻で、95年の『週刊ベースボール』では幾度となく平井特集を組んだ。なにせ前半戦終了時、35試合に投げて11勝3敗19セーブ、防御率1.92で30セーブポイントという獅子奮迅の大活躍。ときに平井が打たれて、自身の勝ち星が消えようが大ベテランの佐藤は逆に新守護神を励ました。

「あの時は本当に悔しかったです。とにかく悔しくて、合宿所に帰っても打たれた時の場面とかいろいろ考えていたら眠れなくなったんです。その時に、佐藤(義則)さんが試合後に「打たれて負けるのもリリーフの宿命や。また明日もお前は投げなアカンのやから気にしてたらキリないで」と言っていたのを思い出して、そういえばそうかもしれない、こんなことで自分がまいってたらアカンのやないかな……と思ったりしたもんです」(『週刊ベースボール』95年8月7日号)

95年には53試合に投げリーグ優勝に貢献。ビールかけでナインと喜びを分かち合った


 21歳のイチローと20歳の平井は新たなチームの顔だった。後半戦も7月16日から16試合連続無失点。リーグ新の42セーブポイントを達成するも、勝てば本拠地で胴上げの17日ロッテ戦で5失点の乱調。51試合目で初めて途中降板となり、救援全試合が交代完了という記録が途切れた。それでも、19日の西武戦では胴上げ投手に。上体の力に頼った投球フォームは体への負担も大きく、シーズン終盤は右ヒジ痛も抱えていた。ヤクルトとの日本シリーズでは2戦連続で被本塁打とすでに体は限界だったが、53試合で15勝5敗27セーブ、防御率2.32という堂々たる成績で最優秀救援投手、最高勝率、新人王と多くのタイトルを獲得。捕手の中嶋聡(現オリックス監督)と最優秀バッテリー賞にも選ばれた。オリックス82勝の51%に貢献する42SPの働きでMVP投票では、本塁打王以外の打撃タイトルを独占したイチローに次いで第2位。契約更改では年俸660万円から一気に6000万円へと大幅アップを勝ち取る。先輩投手・牧野塁の愛車フェアレディZの後部座席に巨体を折り曲げるように乗り込み、寮の青濤館からグリーンスタジアム神戸入りするのがお馴染みの光景だったが、アウトドア好きの平井は念願のパジェロを購入した。

昔のような投球ができずに……


95年には新人王にも輝いた。右は広島山内泰幸


 96年は仰木監督が「今年は平井を先発に持っていきたいという夢を持っているんですよ。実現したいと思いますね」と初夢を語ったが、前年の大車輪の活躍の代償は大きく、キャンプから右ヒジ違和感や右太ももの張りで大きく出遅れる。後半にチームに貢献するも、リリーフのみの34試合の登板で、5勝3敗6セーブ、防御率2.50と前年より大きく成績を落としてしまう。

「何が悪いというのじゃなく、一言で言えば目に見えない疲れがあったということだと思います。2年目といっても、プロというそれまで知らない世界で突然53試合も投げて体も気持ちも疲れていたはず。なのに今のようなしっかりしたケアもせず、若いから大丈夫だろう、と思っていたら大丈夫じゃなかった」(『週刊ベースボール』2014年11月24日号)

 チームが初の日本一になった96年の日本シリーズ優勝の翌日、仰木監督はあらためて「平井は将来、投手陣の柱になるピッチャー。来季は先発で使おうと思っている」と明言。オフにはハワイ・マウイ島で2歳上の彼女と結婚式を挙げた。97年4月24日の西武戦で待望の先発初勝利を挙げたが、好調時は打者を圧倒したストレートで押し込めなくなり痛打されることも増えた。結局、シーズンを通して2勝1敗と先発転向は失敗に終わる。閉幕を待たず10月には首脳陣の配慮で、友好球団のシアトル・マリナーズのファーム組織にリフレッシュも兼ねた短期野球留学へ。

「先発に回って長いイニングを投げるということで、最初はコントロール重視で行ったんです。それで通用するときは良かったんですけど、ちょっと力を入れて投げんとアカンなと思う場面が来た。するとどうも抑えのときみたいにいかない。結局、リズムを崩してしまった」(『週刊ベースボール』97年12月1日号)

 このアリゾナで、短いイニングを全力で投げるうちに以前の感覚を取り戻す。ヒジを痛めて以降は腕が下がっていた投球フォームを見直し、98年には再びリリーフ業へ。最速151キロと球威が戻り、36試合で6勝3敗1セーブ、防御率2.48と復調したかに見えた。だが、平井は翌99年から4シーズン未勝利という出口の見えないスランプに陥ってしまう。150キロ近い表示が出ても、昔のように球が行ってないのが自分でも分かった。気持ちが落ち込んで、一軍に呼ばれても単にシーズンをこなしているだけ……という最悪の状態だ。大器・平井をなんとかしようとする周囲からの過剰のアドバイスも本人を苦しめる。2001年8月には右ヒジ軟骨の除去手術へ。プロ6年目から9年目の投手として最も脂の乗った時期を不振と故障で棒に振った。当然、もう平井は終わったという声すら聞こえてくる。そして、長いリハビリ期間を経て、ようやく思い切り腕を振れる状態になった2003年1月に電撃トレードが決まるのだ。中日ドラゴンズの元ホームラン王・山崎武司との1対1の交換トレードである。

中日で果たした復活


 このとき、中日の監督は山田久志だった。平井が鮮烈デビューを飾ったときのオリックス投手コーチが直々に交換相手に平井を指名したのである。当初は中継ぎ起用も、ローテーション投手に故障者が出たこともあり先発マウンドへ。リリーフで登板間隔が詰まるより、先発の方がヒジにも負担が少ないのではという指揮官の気遣いもあった。オリックスで十代の平井を先発で育て切れなかった山田の後悔は、中日で28歳の平井を先発として再生させるという新たな目標に切り替わっていたのだ。新天地では同学年の川上憲伸から刺激を受け、先輩の山本昌の先発調整法を参考にした。チーム状況は決して良くはなかったが、山田監督の休養が発表された9月9日の広島戦に先発した平井は、意地のプロ初完封勝利を挙げる。

「解任劇があったからといって、落ち込んでもいられないし、山田さんが辞めたときに自分が打たれて、「やっぱり、コイツはダメだ」とか言われたら、山田監督にも申し訳ないですから」(『週刊ベースボール』2003年10月13日号)

2003年から12年までは中日でプレーした


 オリックス時代に「(先発は)スタミナ配分とか考えて手加減したけど、やっぱり僕には向いていない」と自嘲気味に語っていた男は、中日移籍1年目に40試合(20先発)で12勝6敗、防御率3.06と復活を遂げるのである。プロ10年目で自身初の規定投球回にも到達して、カムバック賞に選出された。そして翌04年は、先発とリリーバーを兼業。05年からは再びリリーフ専任して落合中日のブルペンを支える一員となった。なお、06年の57登板は、あの栄光の95年の53試合を超える自己最多登板数である。

 山田久志はオリックス時代の平井について、こんな言葉を残している。「あれだけの素材を持った投手を大エースに育てられなかった。これが、今でも大きな悔いとして残っているんですよ」(『webSportiva』2014年12月11日)。通算284勝を挙げた史上最高のサブマリン山田をして、ここまで言わしめる規格外の逸材。プロ入り当初の平井の投げるストレートにはそれだけの魅力があった。仮にデビューから先発として育てていたら、伊良部秀輝松坂大輔と投げあう90年代のパ・リーグを代表する大エースになり、イチローと同時期にメジャー・リーグの舞台に立っていたことだろう。

 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない──。トレード先の中日で10年間もプレーして、通算378試合に投げた。これはオリックス在籍時(1994〜2002年、2013〜14年)の通算191登板を大きく上回っている。あの頃のような剛速球が投げられなくなっても、投手・平井正史は決して終わっていなかったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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