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逆転野球人生

戦力外の元広島の四番・小早川毅彦がヤクルトで球史に残る開幕戦3連発!【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

次代の四番バッターとして期待


広島時代の小早川


「崖っぷちに追い込まれた男が努力する姿は美しいのう。もう一花咲かせてあげたいもんや……」

 ヤクルト野村克也監督は、西都秋季キャンプで一心不乱にバットを振り込む35歳の背中に向けて、そう呟いた。視線の先にいるのは、広島を自由契約となり前年の半分以下の年俸でヤクルトに拾われた小早川毅彦である。

 小早川はまさにエリート野球人生を歩んできた。幼少期に難病ネフローゼにかかり、薬の副作用もあって体重は100kgを超えてしまうが、運動神経は群を抜いていた。PL学園の野球部で最初は体重を落とすためにひたすら走らされたが、やがて巧さとパワーを併せ持った「PL史上最強打者」と称されるまでになる。なお、1年先輩の西田真二、同学年の山中潔とはプロ入り後に広島でも同僚となった。

 二度の甲子園を経験後、法大へ進学すると、1年時からレギュラーで活躍。2年生の秋には六大学の三冠王に輝く。日米大学野球では首位打者を獲得と1983年ドラフト会議の目玉選手のひとりとして騒がれ、本人の希望通り地元の広島カープから2位指名を受ける。そのプロ生活の始まりは順風満帆だった。オープン戦初出場で初打席本塁打を含む4安打の固め打ちでスポーツ新聞に「天才デビュー小早川」と大きく報じられ、翌日も2号3ランを放ち、新人王の最有力選手と目される。『週刊新潮』84年3月8日号では、「甘いマスクと地元出身の強みで、赤ヘルのスターになる条件はすべて揃っている」と巨人原辰徳以上の人気選手になるかもしれないとニュースター誕生への期待を煽った。長年チームを牽引した山本浩二衣笠祥雄の二枚看板も30代後半を迎え、チームは次代の四番バッター育成が急務だった。

法大在籍時の84年、ドラフト2位で広島に入団[中央は古葉竹識監督、右はドラフト1位・川端順


 戦国武将・小早川隆景の血を引く背番号6は、5月8日の大洋戦で法大の先輩・山本以来という、球団の新人では16年ぶりにスタメン三番で起用されると、いきなり2安打3打点。3割を超える打率だけでなく、6月19日の大洋戦では10号アーチと快進撃は続いた。この時期、球界はちょっとしたタケちゃんフィーバー状態で、『週刊ベースボール』84年7月23日号では早くも表紙に抜擢。巻頭カラーグラビアページを「ポスト・山本浩 約束された次代の“ミスター赤ヘル”」という見出しとともに飾っている。合宿所には、毎日20〜30通のファンレターが届き、「プロ入り前に女性関係はすべて白紙にして、真っ白なカラダで入団しました」なんて笑ってみせるプリンス。そのアイドル人気の裏で、小早川は懸命に練習に打ち込んだことを先輩選手の達川光男は証言している。

「キャンプのときのアイツの練習量を知ってますか? 三塁コンバートのために、毎日居残りのノックを受けていた。外野と一塁のノックが終わったあとにね。1日200〜300本。口でいうのは簡単だ。どんなにシンドイか。並みの人間にはできやしないですよ。アイツは毎日グチもこぼさず、文句もいわずにやっていた。帰りのバスに乗るのはいつも最後。ドロドロのユニフォームでね。あの姿を見た頃から、小早川のことを認めてますよ」(週刊ベースボール84年9月3日号)

1000安打を花道に戦力外通告


週刊ベースボールの取材中のひとコマ


 小早川は愚直に山本や衣笠の背中を追った。23試合連続ヒットも記録して、長嶋茂雄以来の新人打率3割が現実味を帯びるも、9月に入ると息切れ。それでも112試合、打率.280、16本塁打、59打点という成績で広島のリーグ優勝に貢献。チームは日本一に輝き、小早川も新人王に選出される。初めての契約更改では140%アップの推定960万円で一発サイン。「貯金なんか……。カネは天下のまわりものというから、使いますよ。これからドンドン稼げばいいんだから」なんて豪快に笑う赤ヘルのプリンス。作家の山口洋子は、そんな小早川を可愛がり東京で好物の天ぷらを度々ごちそうした。2年目には二塁起用もありながら打率.290。86年2月には歌手の高橋亜貴子とのデュエットでレコード『魅惑のドレス』をリリースしている。偉大な先輩たちの後ろで小早川はノビノビとプレーした。

「コウジさんとキヌさんの2人が大きすぎるんですよ。ボクらがベンチにいても、あの2人がなんとかしてくれるんじゃないかと思いますもんね。ボクらとして一番怖いのは2人のケガですよ」(週刊ベースボール86年7月7日号)

 そして、86年のリーグVを置きみやげに山本が現役引退、翌87年限りで衣笠もユニフォームを脱ぐ。小早川の87年の打撃成績は124試合で打率.286、24本塁打、93打点。勝利打点16はセ・リーグ最多だった。法大の先輩・江川卓からサヨナラアーチを放ち、怪物投手に引退を決意させた一撃は話題になった。89年はプロ6年目で自身初の打率3割をクリア。主軸打者として決して悪くない数字だが、巨人の原が王・長嶋の後継者として物足りないと批判されたように、小早川も山本や衣笠に代わる新たなチームの顔として大きすぎる期待の中で苦しむことになる。もともと小早川は中距離ヒッターだが、「打率は低くてもいいから一発を打てるバッターになるべきなのか、それとも本塁打より打率を目指した方がいいのか」と自身の打撃スタイルにも迷いが生じた。

 91年は山本浩二監督が初Vを達成するが、小早川は打率.259、7本塁打とプロ入り以来最低の数字に終わる。区切りの10年目、93年は打率.269、17本塁打と多少持ち直したかのように思えたが、チームの主軸はすでに野村謙二郎前田智徳江藤智といった若い世代が担っていた。年々出番を減らし、96年はわずか8試合(8打席)で内野安打1本のみの打率.125に終わる。そのシーズン、初めて出場選手登録されたのは閉幕も近い9月21日。あと1安打に迫った通算1000安打を最後の花道として考える球団の思惑も当然あったはずだ。10月1日の中日戦で記録を達成した2日後、10月3日に球団から戦力外を告げられ、「引き際としていいタイミングじゃないか」とフロント入りを勧められる。それでも、本人は現役続行を目指し、「ヤクルトさんの方に聞いてみてくれませんか」と野村克也監督のもとでのプレーを希望するのだ。野村監督は以前から、ベンチスタートが多くなった小早川によく「なんだ、きょうも出ないのか。ウチに来いよ」と冗談交じりに声をかけていた。

ヤクルトで鮮やかな復活


ヤクルト移籍1年目、開幕の巨人戦で3打席連続本塁打をマーク


 96年10月21日にヤクルトと契約合意すると、11月で35歳になるベテランは自ら希望して西都秋季キャンプに参加する。私生活では離婚も経験、文字通り裸一貫の再スタートだ。ガムシャラにバットを振り込み、合流1週間で体重を5kgも落とした小早川には運も味方した。その年限りで四番一塁のオマリーが退団。ドラフト会議では全日本の四番・松中信彦の獲得に失敗。巨人を自由契約になった落合博満の争奪戦にも敗れた。つまり、ぽっかりと空いた一塁のポジションで小早川の生きる道が見つかったのだ。エリート街道を歩み、プロでも1年目からクリーンアップを打った35歳は、人生で初めて試合出場に飢えていた。

「ベンチ座って試合を見ていたんですよ。あ、見とったらいけませんね。試合は参加せんと(笑)。広島市民球場には独特の雰囲気があるんですが、その時がまさにそうだったんです。カ〜ッと暑くて、試合もすごい盛り上がっていましてね。自分もあそこに立ちたいなと、13年いて、やっと純粋にそう思えたんです」(週刊ベースボール97年3月24日号)

 97年、ヤクルトの開幕戦の相手は宿敵・巨人だ。前年優勝チームの四番は、西武からFA移籍してきたPL学園の後輩で年俸3億4500万円の清原和博。自由契約の果てにヤクルトに流れ着いた年俸2000万円の小早川とのコントラストは残酷ですらあった。しかも、相手投手は3年連続で開幕戦完封中の前年の沢村賞投手・斎藤雅樹である。

 戦前の予想は巨人絶対有利。だが、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない――。小早川は前年まで対斎藤は70打数22安打で打率.314、4本塁打と決して苦手な投手ではなかった。背番号7をつけた新天地でのオープン戦では、全16試合に出場して打率.317と仕上がりも上々だ。野村監督は、法大でも広島でも1年目に活躍した小早川に「お前は1年目はいいんや。自信も持ってやってこい」と4月4日の開幕戦に「五番一塁」で送り出す。

97年、新天地のヤクルトでチームはリーグ優勝。小早川の打撃もVへの大きな力となった


 すると、東京ドームの超満員の観客は平成球史に残る衝撃のシーンを目撃することになる。2回の第1打席、初球のストレートをセンターバックスクリーンに叩き込む移籍第1号アーチ。続く4回の第二打席は外角のカーブをとらえライトスタンドへ。野村監督の「斎藤はワンスリーになると、決まってヒュッとカーブを投げてきよる」という試合前のアドバイス通り、1ストライク3ボール(当時の表記)のカウントからカーブを狙い打ちした。仕上げは6回の第3打席、今度は内角低めのシンカーをすく上げ、またもライトスタンドへ突き刺した。前年わずか1安打のリストラ選手が、昨季のヤクルトが0勝6敗と苦しんだ“平成の大エース”から、劇的な3打席連続アーチを放ってみせたのである。

 なお、天敵をKOして開幕戦に勝利した97年のヤクルトは独走でセ・リーグを制し、日本一にも輝くが、そのすべては開幕戦の小早川の3連発から始まった。35歳のリストラ男が、野村再生工場で蘇りチームの救世主へ。開幕2戦目は力みまくって4打席4三振はご愛嬌、優勝を決めた阪神戦では猛打賞を記録するなど、打率.249、12本塁打という数字以上の強烈なインパクトを残した背番号7。野村監督も「今年のワシの守り神やったな」と最大限の賛辞を送っている。

「あの3発や。負け犬根性も、斎藤への苦手意識も見事に払拭してくれた。小早川の3本がすべてや」

文=中溝康隆 写真=BBM
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