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プロ野球現場広報は忙しかった。

1994年「10.8」決戦で優勝決定! ただし広報担当者の僕は、ここからがプレーボール、そして勝負なのだ/香坂英典『プロ野球現場広報は忙しかった。』

 

 元巨人軍現場広報の香坂英典氏の著書「プロ野球現場広報は忙しかった。」がこのたび発売! その内容を時々チョイ出しします!

落合博満さんのすさまじい執念


『プロ野球現場広報は忙しかった。』表紙


 長嶋ジャイアンツの伝説と言えば、なんと言っても1994年『10.8決戦』だ。

 語り継がれる歴史に残る戦い。プロ野球史上初めて、勝率が同率同士の最終戦直接対決で優勝が決まる中日との決戦がナゴヤ球場で行われた。

 以下はそれに触れた部分のチョイ出し第2弾です。

 試合が始まる……。

 幾多の名場面があったが、僕が一番印象に残った出来事は3回裏、一塁手の落合博満さんが一、二塁間の強いゴロを捕る際、内股の筋肉を痛めたシーンだ。

 落合さんの痛がり方から筋肉に大きなダメージを受けたことは間違いない。その場で立てず、中畑清コーチに背負われてトレーナー室に運ばれたが、痛みに苦悶の表情を浮かべていた。

 トレーナーが触診を行おうとしたそのとき、落合さんが大きな声で叫んだ!

「俺は、出るぞ!」

 鬼気迫る表情が印象的だった。ダメかもしれないと一番分かっていたのは落合さん本人だったと思う。

 しかし、絶対にこのまま引き下がれないという気迫が「出るぞ!」の言葉を絞り出したに違いない。

 状況を目の当たりにし、守りに就くのは無理としか思えなかった。ところが、落合さんは股関節付近をこれでもかというくらいグルグルとテーピングでガッチリ固定し、再びファーストミットをつかみ、一塁キャンバスへ戻った。

 落合さんは、その回の中日の攻撃が終わってから交代となったが、2回表にソロ本塁打、3回表にも適時打を放っており、この試合に懸けた強い思い、命懸けと言ってもおかしくない並々ならぬ執念が感じられた。

 巨人移籍の記者会見で言った「長嶋監督を男にするために巨人に来た」という言葉が証明されたと言っていいだろう。

 9回裏、三番手の桑田真澄が最後の打者を空振りの三振に打ち取り、締めくくった。ナインは一斉にベンチを飛び出し、長嶋監督の歓喜の胴上げが行われた……。

 とはいえ、僕の喜び方はちょっとドライだった。

 なぜならば広報担当者の僕は、ここからがプレーボール、そして勝負だからだ。

 試合後にはマスコミの優勝対応という大仕事が残っている。

 ホテルに帰ると、まずは「優勝手記」と言って、翌日の新聞に手記を載せる社と対象になる選手を一つずつ引き合わせる作業をする。

 深夜に掛けてはラジオやテレビの取材がある。彼らは優勝決定番組をオンエアするため、中継車を止め、ホテル内に特設のスタジオを構える。放送形態は主に生放送であり、夜のニュース番組でオンエアされ、ラジオは録音形態もある。分刻みのスケジュールに合わせて、時間厳守で出演者をスタジオに送り込まなければならない。

 これが大変なのだ。(つづく)
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