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愛すべき助っ人たち

野村克也が去って低迷する鷹を支え…絶望的なハンディを克服、語り継ぎたい助っ人メイ【愛すべき助っ人たち】

 

新たな四番打者として


1978年から81年まで南海でプレーしたカルロス・メイ


 プロ野球の助っ人で「メイ」といえば多くのファンが阪神巨人で鳴らした左腕のダレル・メイを挙げるだろう。実力は申し分なかったが、阪神では野村克也監督と衝突して「私は野村監督が嫌い。彼のためにプレーしたくない」などという怪文書を報道陣に配布し、巨人では阪神の元チームメートである和田豊に危険球を投じ、和田を狙ったものだと発言するなど、なにかと物議をかもす助っ人でもあった。

 ただ、助っ人の「メイ」で、低迷期の南海(現在のソフトバンク)を支えたカルロス・メイを挙げるファンも少なからずいるはずだ。この連載は少数派を見捨てない(?)。兼任監督を務めていた野村が去った南海へ1978年に入団、新たな四番打者としてチームを支えたのが、このカルロス・メイだった。

 メジャー通算1127安打という実績を誇るメイ。66年のドラフトでホワイトソックスから1巡目で指名されて、68年にメジャーデビューを果たした。だが、69年オフの兵役で右手親指の第一関節から先を欠損してしまう。選手生命に関わる大ケガだったことは間違いない。だが、そのハンディキャップをカバーするべく打撃改造。コンパクトにミートすることで結果を残していく。

 その後は、ヤンキース、エンゼルスと渡り歩いて、30歳となるシーズンに南海へ入団した。1年目は12本塁打と長打こそ物足りなかったが、打率.312と安定感を発揮。80打点は最終的には自己最多の数字となる。2年目の79年は打率.307と安定感を維持しつつ、26本塁打を放っている。翌80年にはリーグ4位、自己最高の打率.326に加え、自己最多の27本塁打。主砲として、四番打者として。さらなる活躍が期待された。

 だが、その翌81年6月に右膝はく離骨折のため、離脱。この重傷は克服できず、オフに退団、現役も引退した。

 阪神と巨人という伝統の2チームに所属して活躍したこともあって、ダレル・メイのインパクトは抜群だ。とはいえ、人気がなかった時代のパ・リーグの、低迷期の南海を支えたカルロス・メイ。語り継がれる、というよりも、語り継いでいきたい助っ人の1人だろう。

写真=BBM
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