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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】木田勇 入団交渉時に土地要求のドラ1新人、圧巻22勝でタイトル総なめ!/第1回

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

希望は在京セ球団


日本ハム1年目の木田


 かつて、契約金の代わりに「土地」を要求した規格外のルーキーがいた。

 1979年のドラフト会議で、日本ハムが1位指名をした木田勇である。25歳の木田は、6000万円の契約金を提示されるも、本拠地の後楽園球場へ通える川崎市近辺に両親と一緒に住む家を建てる土地が欲しかった。条件は100坪とも、契約金プラス80坪とも報道されたが、この異例の要求に日本ハム側も「ウチとしては最高の誠意を見せたつもりだが……」と困惑。そして、木田は「6000万円という金額を知っているのか」、「プロで一球も投げていないのにいい加減にしろ」と世間から叩かれる。いわば、ドラ1サウスポーは“世の中を舐めた生意気な若者”としてプロ入りするわけだ。

 木田は横浜一商高から73年に日本鋼管入りするも、社会人屈指の投手王国では出番がなく、ひたすら打撃投手として投げ続けた。コントロールが悪く、弱点の下半身を強化するため、合宿場から川崎市内の職場までランニングで通い、練習後はグラウンドから寮まで毎日走る。会社では設備部の川崎保全室で事務仕事だ。

 73年に続き、76年にもチームは都市対抗で優勝。エースには2年先輩の梶間健一が君臨していたが、その梶間がヤクルトからドラフト2位指名され、ようやく木田にチャンスが回ってくる。入社6年目の木田は78年の第49回都市対抗で決勝戦まで5連投。惜しくも準優勝に終わるも、敢闘賞にあたる久慈賞に選出された。ハーレム国際野球大会の日本代表として大会の最優秀投手賞にも輝き、身長180cmの痩せっぽちのノーコン投手は、アマ球界ナンバーワンの即戦力左腕へと変貌。江川卓の“空白の1日”で騒がれた1978年のドラフト会議では、大洋、阪急、広島が1位入札で競合する。

 木田は地元の大洋入りを希望するも、交渉権を獲得したのは広島だった。両親の健康問題もあり、「結論からいいますと、カープには入団しません。地理的な面が理由です」とあくまで在京セのチーム入りを希望して入団を拒否。なお、カープは広島に両親の住める家も用意すると口説いたが、木田の意志は固かった。第50回都市対抗の神奈川予選では日産自動車相手に毎回の19奪三振の新記録を樹立。インターコンチネンタル大会では最優秀左腕投手に選ばれ、「江川以上」と前年以上に評価を上げ、再び1979年11月のドラフト会議を迎える。早大の岡田彰布とともに目玉選手として注目された木田には巨人、大洋、日本ハムの3チームが1位入札。今度こそ希望の在京セ球団に入団できると思いきや、無情にも交渉権を引き当てたのはパ・リーグの日本ハムだった。

「意外と素直じゃないか」


阪神ドラフト1位・岡田[左]とツーショット


「いいですか。お嫁さんを選ぶときにも候補者が何人かいれば、自分の気にいった人を選ぶのが当然でしょう。選ぶ権利があるはずでしょう。ところが、ドラフト制はどうですか。選ぶ権利がない。本人の意志を無視している。こんなバカな制度がありますか。息子はパ・リーグは嫌いだといっているんですよ」(週刊ポスト1979年12月14日号)

 我が子を想う木田の父が「日本ハムは指名前にこっちに挨拶も何もなかった」と記者に愚痴った言葉が活字になり広まり、木田本人は日本ハムとの三度目の交渉で土地を要求したことにより、多くの批判にさらされた。日本鋼管の大先輩で日本ハムのエース高橋直樹には川崎市の寿司屋で会うなり、初対面にもかかわらず「お前なぁ」と呆れられたという。

「入団を表明する前に、高橋直さんと会ったでしょう。(中略)「ウチのチームにこい。プロになる以上最低の条件は“試合に出られる”ということ、それだ」っていってくれたんです。「あとはお前の努力次第だぞ」って。プロ入りしようと思いはじめた矢先だったので、その一言できまりました」(週刊ベースボール1980年4月21日号)

 25歳、プロ入りの最後のチャンスという自覚もあった。結局、契約金6000万円、年俸540万円で12月13日の4度目の交渉で仮契約を発表。サラリーマン時代は月給11万5000円だったことを思えば、夢のような金額だった。なお、土地要求については、木田もそこまでの騒ぎになるとは思っていなかったという。

「球団オーナーの『土地は出さん』のひと言で、私もすぐに引き下がり、一件落着しました。契約金は税金で引かれたら4000万円ちょっとになってしまうので、6000万円分の価値のある土地をいただいてもいいのかなと。単純にそう考えただけでしたし、契約に関しては当事者以外の人に批判する権利はないと思っています。結果的には、この一件で『生意気なヤツ』という印象を与えてしまったようで、メディアの影響力は怖いと感じましたね」(プロ野球「ドラフト1位」という人生の“その後” 第一回選択希望選手―選ばれし男たちの軌跡/横尾弘一/ダイヤモンド社)

 ベテランの多い投手陣からは「生意気なヤツがくる」と警戒されたが、いざ自主トレやキャンプで木田と顔を合わせると、「意外と素直じゃないか」と可愛がられる。明るく人懐っこいルーキーは、物怖じせずに先輩たちを質問攻めにして距離を縮めた。“親分”こと大沢啓二監督も高齢化したベテラン揃いの投手陣で、25歳の木田に大きな期待を寄せた。

「あれは契約金6000万円に土地100坪つけろなんて言ったけど、現代っ子だなあ。しかし、はっきりした自分の主張を持つのは、大したものだと思うんだ。これはなかなかいえんぞ。ワシはその点は感心した。ええ心臓してる。プロ向きの子だよ」(週刊現代1980年3月20日号)

 大沢親分率いる日本ハムの環境で、木田はノビノビとプレーする。オープン戦で広島の山本浩二に2本塁打を浴びると、マウンド上から「コノヤロー、コノヤロー」なんて声を出して投げ続けた。主力の個性派レギュラー野手たちも、そんな向こうっ気の強い新人を受け入れる度量があった。

「(オープン戦で)柏原(柏原純一)さんが打って勝つたびにぼくがヒーロー扱いされて翌日の新聞に出るのはぼくでしょ。なにかわるくって。柏原さん、「コラアッ、またお前か」って(笑)。そういうことをいえる雰囲気というの、いいですね」(週刊ベースボール1980年4月21日号)

驚異の新人と一躍時の人に


大沢監督[右]の下でノビノビとプレーした


 週べの新人王レース予想でも「本命中の大本命。二ケタ勝利は確実」という高い前評判通りに、1980年4月6日の西武戦、開幕2戦目に後楽園球場で先発マウンドに上がった木田は1失点完投でプロ初勝利。150キロ近いストレートとカーブに加え、プロ入り後に投手コーチの植村義信から教わった魔球パームボールで打者を翻弄した。寮には入らず、後楽園には契約金で買った愛車の赤いフェアレディ280Zで通う異端の新人は、そこから連勝ロードを爆走する。

 4月25日のロッテ戦、試合前に食堂でスパゲッティとチャーハンをたいらげ、記者たちから「今日はリリーフ?」と聞かれると、「そりゃそうでしょう。これで先発したら、マウンドでゲーですよ」と欺き、いざ先発すると新人完封勝利一番乗りの快投。ドリフスターズのひげダンスを真似ながら、会見場に現れる現代っ子の姿に、「長嶋(茂雄)みたいなヤツだ。どこかマンガだぜ。声も頭のてっぺんから出てるしな」(現代1980年7月号)と大沢監督も喜んだ。

 4月を負けなしの4勝0敗、防御率0.79で終えると、いきなり月間MVPにも選出。5月5日の西武戦でプロ初黒星を喫したが、「5勝0敗なんて信じられないですよ。4勝1敗の方が納得がいく。これでカッコがついた」とうそぶいてみせた。マウンド上での「相手を怒らせ、自分を奮い立たせる」という派手なガッツポーズも話題に。いかにも80年代ぽいネアカな若者が、パ・リーグの猛者達を手玉にとる。そんな分かりやすい構図に、マスコミも飛びついた。

 当時の球界は圧縮バットに反発力の強い飛ぶボールが使用される投手受難の時代(80年シーズンは近鉄、西武、阪急がチーム本塁打200以上)だったが、木田はその後もリーグでひとりだけ1点台の防御率をキープ。開幕からの10先発の内、9完投(2完封)と凄まじい投げっぷりで、10勝目を記録した6月30日の阪急戦のようにときにリリーフとしてもマウンドに上がった。

 6月に26歳となった背番号16は、驚異の新人と一躍時の人に。土地要求の問題児イメージはすっかり忘れ去られ、裏表のない「根っからのスポーツマンスター」と人気を集める。社会人時代と同じように電車に乗ればサインを求める少年ファンに囲まれ、週べ80年5月19日号では「野球の醍醐味を見せる男」と巻頭カラーグラビアを飾った。前・後期制のパ・リーグで、前期だけで二ケタ勝利を挙げる木田の活躍もあり、日本ハムはロッテや近鉄と激しく優勝を争うも僅差の3位。オールスターファン投票でも木田は投手部門1位で選出。第3戦ではなにかと比較された巨人の江川と先発で投げ合い、3回1安打無失点の快投。対する江川も3回7奪三振と新世代のエース対決にファンは沸いた。

獅子奮迅の大活躍


先発、リリーフにフル回転した


 後期もその勢いは衰えず、悲願の初優勝を目指す日本ハムは木田をフル回転させる。7月29日南海戦、8月3日近鉄戦、8月8日西武戦と3試合連続完投勝利。8月12日と13日の阪急戦では2試合連続でリリーフとしてマウンドに上がり、再び先発として15勝目を挙げた8月17日近鉄戦、23日阪急戦、27日西武戦、9月2日近鉄戦と4試合連続の完投勝利だ。社会人時代からプロでの中4日先発を想定してトレーニングを積んだ木田も、さすがに疲労の色は隠せず夏場から失点が増えていく。9月7日の西武戦で2回5失点KOを喫すると防御率も2点台に。9日のロッテ戦ではサヨナラ押し出しでプロ初の連敗。一発を浴びることも多くなっていたが、すでに大沢采配は「木田と心中」という起用法で、痩身のルーキー左腕は後期Vを目指して、ひたすら投げ続けた。

 まさに獅子奮迅の大活躍に、球団側も疲労を考え木田だけ登板前夜にホテルに泊まらせるなど最大限バックアップする。観客動員に悩むパ・リーグ球団にとって、後楽園に登場すると「木田コール」が起こるニューヒーローの存在は、営業面でも救世主だった。日本ハムの影井武志広報担当も「6000万円の契約金も、もうとっくに元が取れましたよ」とホクホク顔だ。

「うちの今年の観客動員数は、去年より15%ほどふえて150万人くらいになる見込みですが、その一割は木田が集めてくれたと思っています。『木田登板』を予告した日は、とくに客足がよかったですしね」(週刊文春1980年10月16日号)
 
 そして、9月25日の南海戦、木田は延長11回198球を投げ抜き16奪三振の力投。チームはサヨナラ勝ちで、ついに20勝の大台に到達する。新人投手としては65年の池永正明(西鉄)以来、15年ぶりの快挙だった。30日のロッテ戦ではリリーフで6回途中から3回3分の2を投げきり21勝目。チームも3位から首位へ浮上する。悲願まであと一歩。10月2日の西武戦でもリリーフとして5回無失点に抑え22勝目。10月5日の阪急戦も当然のように2回無失点でセーブを記録。生意気な現代っ子と揶揄された男が、血の小便を垂れ流す思いで懸命に投げた。もはや近代野球の価値観ではありえない酷使ともいえるが、勝ち試合には迷うことなく木田を投入する大沢采配は、優勝が懸かった大一番でも変わらなかった。

優勝目前の10月7日の近鉄戦でリリーフでマウンドに上がったが……


 10月7日の近鉄戦、引き分けでも後期Vが決まる超満員の後楽園球場で2回裏に日本ハムが1点先制すると、3回無死二塁のピンチで早くも木田を投入。しかし、佐々木恭介にタイムリーを打たれ同点に追いつかれ、4回表には集中打を浴び、まさかの3失点を喫して勝ち越しを許す。呆然とマウンドにしゃがみ込む背番号16。しかし、この状況でもなお木田は8回途中までの5回3分の2を投げ続けた。絶対的エースを攻略された日本ハムのショックは大きく、1点差に追い上げるのがやっと。このあと西武に連勝した近鉄が逆転優勝をさらい、木田のプロ1年目は終わりを告げた。

 1980年の木田の最終成績は48試合(26先発)、253投球回、22勝8敗4S、防御率2.28、225奪三振、勝率.733。最多勝、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振(※当時は連盟表彰なし)と投手タイトルを総なめ。シーズン毎回奪三振3ゲームの新記録に32イニング連続奪三振のプロ野球タイ記録といった個人記録はもちろん、ベストナインとダイヤモンドグラブ賞に加えて、新人王と史上初のルーキーでMVPにも輝いた。その先にメジャー移籍やWBCのような目標もなかった時代、木田は1年ですべてをやり切ってしまったような雰囲気すらあった。

悔いが残る1年目オフの過ごし方


 翌81年は4月こそ順調に勝ち星を重ねるも、次第に相手打者がパームに手を出してくれなくなり、カウントを取りにいった直球やカーブを狙い打たれる。5月後半から不調に陥り、ミニキャンプを敢行したが10勝10敗で閉幕。並の投手なら合格点でも、木田の場合は1年目の活躍があまりに衝撃的だったため、物足りないと思われてしまう。81年の日本ハムは後期に東映時代以来の19年ぶりの優勝を飾り、プレーオフでもロッテを下して巨人との日本シリーズに進むが、木田は第4戦に先発するも4回1失点で降板。決して、肩やヒジを痛めたわけではない。肩への負担が大きいパームも多投は避けていたほどだ。27歳とまだ若く、体力にも自信はあった。

 だが、1年目を終えた80年オフの過ごし方だけは悔いが残ると木田は引退後に振り返っている。毎日のように取材を受け、歌手デビューを飾った『青春・I TRY MY BEST』のレコードは2万5000枚プレス、年末の紅白歌合戦の審査員にも呼ばれた。契約更改では希望額には届かなかったものの144%アップの年俸1320万円で一発サイン。横浜に8000万円の2階建て6LDKの家も買ったあの栄光と喧噪のオフシーズン。

「オフは、イケイケです(笑)。自分がしっかりしてないといけない時代でした。当時はオフになると取材がたくさんあって、1日3本も4本も受けていました。日本ハムにそれだけのスターがいなかったから、しょうがないんです。オファーがあったら、全部OK。週刊誌で誰々と対談だ、テレビの歌合戦の収録だ、と毎日ですよ。ここぞとばかりに球団も「日本ハム」をアピールしたかったんじゃないですか」(1974-1987日本ハムファイターズ後楽園伝説/ベースボール・マガジン社)

 プロ野球にはときに既存の価値観や常識を変える、「時代」そのものを体現する新人が現れる。90年代の野茂英雄松坂大輔、80年代でいえば清原和博であり、この木田勇だった。

 若さで突っ走れる夢のような時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。木田の直球のスピードは年々落ち、85年はわずか2勝に終わり、コーチから投球フォームをいじられると胸の中で「アンタに言われたくねえよ」と不貞腐れた。見かねた球団常務の大沢啓二が「お前、ウチにいてももうダメだろ」とトレード先を探してくれ、31歳で地元の大洋へ移籍。新天地1年目の86年に8勝を挙げ規定投球回にも達したが、90年に中日へ移籍してその年限りで現役を引退する。通算273登板、60勝71敗6セーブ、防御率4.23。彼の生涯成績を知る野球ファンは少ないが、キャリアの始まりの衝撃はいまだに伝説として語り継がれている。

 わずか1シーズン、例え一瞬でも、プロ野球界の頂点に駆け上がらんばかりの強烈な光を放つ煌めく才能があった。その左腕、1980年の木田勇。今から44年前、「アメージング・ルーキー」と呼ばれた男である。

文=中溝康隆 写真=BBM
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