元巨人軍現場広報の香坂英典氏の著書「プロ野球現場広報は忙しかった。」がこのたび発売! その内容を時々チョイ出しします! 荒川道場で一本足打法に挑戦
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『プロ野球現場広報は忙しかった。』表紙
今回は著者が巨人の現場広報時代、
駒田徳広の話だ。
1984年、将来のクリーンアップ候補として大きな期待をかけられていた駒田徳広は「荒川道場」の門をたたいた。
王貞治さんの一本足打法の生みの親として厳しい指導を行った大先輩でもある元巨人軍打撃コーチ・
荒川博さんの家へ通ったのだ。
しかしそれは門をたたいたというより、行かされたというのが正しかったらしい。提案したのは元寮長の
武宮敏明さんだった。駒田と稲垣秀次(将来有望な長距離砲として期待された若手の右打者)の2人を当時二軍打撃コーチだった
原田治明さんが引率し、荒川さん宅に足しげく通った。
駒田が一軍に上がったあとも関東地区でナイトゲームがあったときなど、試合後には荒川さん宅に行き、打撃指導を受けた。
王さんが現役時代にやられた、合気道の教えや日本刀を使う指導もあった。
あくる日に二軍の練習や試合がある原田さんは深夜に帰宅し、早朝に出掛けていく生活で極度の睡眠不足に悩まされたという。
駒田は必死に一本足打法に取り組んだが、結果が出ず、元の打法に戻した。
短気だが頼れる男コマ
コマは短気だ。プレー中にファンのヤジにブチ切れて、今にも取っ組み合いのケンカになりそうなことだってあった。
しかしこの世界、カッカしながら自分を奮い立たせ、力を振り絞るタイプはプロ向きの性格だ。とかく紳士的にスマートにカッコよく結果を出そうとするタイプが多いジャイアンツには、コマのような熱いファイターが不可欠だった。
ただ、むちゃなプレーはしない。レギュラーに定着してからは、いつも「ケガだけはしないように気を付けている」と言っていた。
「ケガのリスクを負うプレーは試合に出ていれば付き物だけど、危ないと自分が判断した場合は避けるようにいつも気を付けます。僕がレギュラーとしてある程度の成績を残していて、もし僕がケガで欠場したら、チームは損をします。今残している成績と同じか、もしくはそれ以上の成績を残せそうな選手が僕の代わりに試合に出て活躍できますか? 簡単にそういう選手が現れるものじゃないでしょう」
バッティングだけではない。一塁手としての守備力は天下一品だ。確実で柔軟なグラブさばき、正確なスローイング、あの大きな体でも軽快に動く守備範囲の広さ、バントシフト時のゴロ処理などは正確そのもので、ゴールデン・グラブ賞10回はだてじゃない。
打撃力と守備力を併せ持った選手はチームにとって大きな戦力だ。ケガをしないという強い意識を持ちながらプレーしている選手がいるのも監督にしてみれば頼もしい。
無事これ名馬……、駒田を指して言っているような言葉だ。
怒られ、叱られて背中を丸めていた新人時代、華々しいデビューを飾っても常に野球と向き合い悩み続けてきた。常に疑問を持ちながら、さまざまな打撃フォームにトライし、ロングヒッターからアベレージヒッターへ打撃スタイルを変えることもためらうことなく行ってきた。
やがて悩むことは考えることに変わり、しっかりと2000安打という大きな足跡がコマの野球人生に残る。
1989年の近鉄との日本シリーズ……、巨人が逆転で日本一に輝く。このシリーズでは最高打率.522を残した駒田がシリーズMVPに輝いた。
この「MVP受賞」の吉報を知らせるため、コマはある人物に電話を掛けた。
荒川さんだ。
「荒川さんのお陰でMVPを獲ることができました。本当にありがとうございました」。
荒川さんはさぞうれしかったことだろう。そして荒川さん以上に喜んでいたのが荒川さんの奥さんだったという。
この話は駒田と一緒に荒川さん宅へ通った原田さんに教えていただいた話だ。
「コマはね、ホントにいいところのあるヤツなんだよ」
巨人軍だけではなく、他球団にも籍を置き、セ、パ両リーグの球団、独立リーグ、大学でも指導者の経験を持つ。現在は2022年から巨人の三軍監督を務めるが、その経験、そして多くの引き出しを生かして、一人でも多くの選手があこがれの舞台で活躍できるように導いてあげてほしい。