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プロ野球現場広報は忙しかった。

ジャイアンツのスコアラーの「赤鬼ホーナー包囲網」って何?/香坂英典『プロ野球現場広報は忙しかった。』

 

 元巨人軍現場広報の香坂英典氏の著書「プロ野球現場広報は忙しかった。」がこのたび発売! その内容を時々チョイ出しします!

ホーナーはもはや神だった?


『プロ野球現場広報は忙しかった。』表紙


 今回は著者が巨人の先乗りスコアラー時代、赤鬼と呼ばれたホーナーの話だ。

 スタートは1987年5月5、6日、劇的なデビューを飾った神宮での阪神戦のあとからである(デビュー戦は書籍には掲載しています)。

 神宮球場でのデビュー戦を偵察し、次に偵察対象の広島を追い掛ける。広島戦は佐世保、長崎での地方試合となり、主催者チームが、なんとまたヤクルトだった。

 佐世保でホーナーはまたも2本のホームランを打った。ちまたでは「ホーナー旋風!」「ホーナー効果!」などとマスコミ報道が熱を帯びていく。

 続く長崎市民での試合前、ヤクルトのチーム付スコアラーである佐藤博さんがネット裏に陣取った僕らの前で悩ましげな表情をしていた。

 どうしたんですかと聞くと「いや、ホーナーがね、この長崎の試合が終わって東京に戻ったら、その足でアメリカに帰るって言い出したらどうしようかと思ってね……」と言うのである。

 僕は冗談だと思い、最初は笑ってしまったが、どうやら冗談でもなさそうだった。

 神宮球場という都会のど真ん中にある球場から、この小さめの古い地方の球場に来てプレーをすれば、その環境のギャップはバリバリのメジャー・リーガーにとっては大きなカルチャーショックだろう。

 現在の長崎ビッグNスタジアム(当時は長崎市営大橋球場)も佐世保野球場も充実した競技設備を持った県を代表する野球場ではあるが、当時はまだ古かったという感は否めず、さぞヤクルト球団関係者はハラハラしたに違いない。

「ホーナーを見に神宮球場へ行こう!」

 電車の中刷りもこのキャッチフレーズでにぎわい、ヤクルトはチケット販売促進キャンペーンを精力的に行っていた。

 連日、ファンはこぞって神宮球場のチケットを買い求める。そんなときにホーナー帰国などとなってしまえば、球団は大打撃を受けてしまう。

 ホーナーはもはや「神」のような存在になりつつあった。

 ヤクルト関係者の思いが通じたのか、ホーナーは帰国せず戦線に残る。しかし、連戦を重ねていくうちに、少しずつ調子を落としていった。シーズン前のキャンプでの調整が不十分であったことがマスコミに報道され、腰痛や手首の痛みを訴えるようになった。

 僕は長崎の試合後、偵察対象チームを転々と変えていったが、不思議なことにその後、偵察した試合のすべてにヤクルトが絡んでいて、それからヤクルトが巨人と対戦するまでの間、ずっと僕はホーナーを見続けていたことになる。

 ヤクルトと巨人の対戦がやってきた。十分過ぎるほどホーナーを見てきた僕は満を持して先乗りデータを準備した。

「現在の状態は日本デビュー時の好調なホーナーではない。腰痛の影響もあるようで、ボール球に手を出す傾向が強い。警戒し過ぎないように、コースや低さを意識して丁寧に投げられれば、決して怖い打者ではない」という旨の報告を書き込んだ。

 そして、巨人投手陣は丁寧な投球でホーナーを封じ込める。

 のちの新聞報道で「巨人、赤鬼包囲網!」という見出しが載った。旋風を起こしているホーナーに対して、巨人が専属のスコアラーを派遣し、対戦試合までの数試合、徹底マークをしたという記事だった。

 えっ、この専属スコアラーって誰? 僕がヤクルト戦をずっと見てこられたのは、たまたまヤクルトとマークすべきチームとの対戦が続いていただけのことで、それはただの日程の偶然だった。

 でも、このときマスコミはとにかくホーナー、ホーナー、ホーナーだった。打っても打てなくてもホーナーなのだ。

 ホーナーは1年限りで退団。途中から旋風は弱まったが、それでもそのシーズン、93試合で31本のホームラン、73打点、打率.327という素晴らしい数字を残した。
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