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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】日米通算2450安打の福留孝介、失策王と三振王からスタートしたプロ生活

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

ドラフトの目玉となった高校No.1スラッガー


プロ1年目、北谷キャンプでの福留


「福留大エラー」「攻守にミス福留が中日を象徴」

 1999年(平成11年)の日本シリーズの様子を報じるスポーツ新聞各紙には、そんな見出しが踊った。王ダイエーが4勝1敗で日本一に輝き、中日のルーキー福留孝介は自身初のシリーズで屈辱にまみれた。それは、アマチュア時代から世代のトップランナーとしてエリート街道を歩み続けてきた福留にとって、初めての大きな挫折でもあった。

 名門・PL学園で1年生から四番を打つのは清原和博以来。“清原二世”、“立浪二世”と騒がれたが、先輩たちからは歓迎されるばかりではない。誰かがレギュラーを掴めば誰かが弾かれる世界だ。才能は残酷である。なんであいつばかり……と思春期の嫉妬も当然あった。2年生の夏が終わり、新チームのキャプテンに選ばれた福留は、同学年全員を集め、こう宣言したという。

「『絶対に下級生には手を出すな。言いたいことがあれば。キャプテンのオレにまず言ってくれ』。格好つけるわけではないが、これは下級生からレギュラーになった経験があればこそ。全国から腕自慢が集う高校だが、全員が出られるわけではない。『こんなはずではなかった』という上級生のストレスや不満が、どんな形でどこに向かうかを、僕は肌身で知っていたからだ」(もっと、もっとうまくなりたい はじまりはアイスクリーム/福留孝介/ベースボール・マガジン社)

 全国屈指の強豪校で1年から四番を張るのは戦いだった。少年時代から、立浪和義に憧れた福留は、生まれ育った鹿児島を出て自らの意志でPL学園を選び、その戦いの中に身を投じたのだ。3年夏の大阪地区大会では、清原の持つ大会5本塁打を塗り替える7本塁打の新記録。甲子園の1回戦、北海道工業戦では満塁弾を含む、史上10人目の2打席連続アーチを放ってみせた。当然、10年に1人の逸材と称された高校No.1スラッガーは、ドラフト会議の目玉となる。

イチロー 福留くじ引く寸前だった」

 これは1995年11月21日、ドラフト前日の報知新聞一面である。オリックス仰木彬監督が、身長182cmの大型ショート福留の強行指名を公表。さらに2年連続MVPプレーヤーのイチローにクジを引かせる仰木マジックを考えていたが、コミッショナーと両リーグ会長の三者会談で、「ドラフト会議はショーではない」と現役選手の参加は却下された。

 巨人長嶋茂雄監督もドラフト前から、「ハイ、もし福留が入って来たら、遊撃で使ってみたいですね。川相がセカンドに行ってね。ウチの内野も一気に若返ります」と主力の川相昌弘のコンバートを宣言する入れ込みようだった。当時、高校生に逆指名権はなかったが、本人の希望球団は「巨人と中日、それ以外は社会人の日本生命へ」と大々的に報道されており、福留もセ・リーグ球団ならば入団するつもりだったという。

3年越しの大願成就で中日へ


ドラフト当日、近鉄・佐々木監督[右]から指名あいさつを受けた福留


 迎えた11月22日、午前10時50分。福留は高校生としては史上最多の7球団から指名を受け、紅白の勝負フンドシでクジ引きに臨んだという近鉄の佐々木恭介監督が「ヨッシャー!」と当たりクジを掲げてみせた。それを校長室のテレビで見届けた福留は、竣工したばかりの体育館の記者会見場へ移動する。「高い評価は有難いと思っています。でも、一度決めた自分の意志は貫きたい」と涙を流すこともなく冷静に報道陣に対応してみせる18歳。担当の河西俊雄スカウトは、マスコミの要望で佐々木監督との写真撮影にも応じながら、入団交渉の中で大人たちの説得にも動じない福留の意志の強さに驚いたという。

 イチローや清原がマスコミを通じて、「パ・リーグを一緒に盛り上げよう」、「社会人野球の3年間はもったいない」とコメントを出しても、当初の予定通り日本生命行きを決断。これと決めたらとことん貫き通す筋金入りの頑固者。社会人野球に進んですぐ、全日本の米国遠征でツインズとのオープン戦で特大アーチを放ち、ドジャースが日本のコミッショナー事務局に身分照会したことも話題になった。史上最年少の19歳で96年アトランタ五輪の日本代表入り。一塁・松中信彦、二塁・今岡誠、遊撃・井口忠仁らスター揃いの内野陣で三塁を守り、銀メダル獲得に貢献する。なお、現地での練習をドジャースのスカウトが視察。野茂英雄がロサンゼルスでトルネード旋風を巻き起こした直後、福留は日本人野手初のメジャーリーガーになっていた可能性もあったのだ。

 96年の都市対抗では初打席で本塁打を放ち、新人賞の若獅子賞に選ばれ、2年目には三番を打ち早くも都市対抗を制覇。インタコンチネンタル杯では宿敵キューバの連勝記録を151で止め、世界一を勝ち取った。迎えたプロ解禁の社会人3年目、年明けには中日の星野仙一監督が早々にドラフトでの福留1位指名を公言するが、週刊ベースボール1998年1月19日号では福留が自身の進路について、こう語っている。

「高校のときは見えなかった部分が、社会人を体験して見えてきたところもあります。選択肢は広がったと思います。今、みんなが海の向こうのことを言っていますが、それも選択肢の中に入ってくるでしょう。ただ、日本でやることを一番には考えていますが」(週刊ベースボール1998年1月19日号)

98年のドラフトで逆指名によって中日入りを決めた


 社会人でオリンピックや国際大会を経験していく中で、世界の舞台を意識し、のちのWBCでの活躍やメジャー移籍へと繋がっていくことになるが、それはもう少しあとの話である。98年11月2日、大阪・吹田市の日本生命寮で会見を開き、21歳の福留は中日を逆指名する。3年越しの大願成就だった。1億円の契約金を手にしても、大阪を出る前にスーツは量販店のアオキで購入し、これまで着ていたものは下取りしてくれる日に持っていく。普通の若者の金銭感覚も社会人生活で自然と身についた。

 11月29日のドラゴンズファン感謝デーで、スモークの中からスポットライトに照らされた「背番号1」の福留がドアラと手をつなぎセンター後方からサプライズの登場。異例の新人お披露目となった。当然、社会人公式戦93試合で打率.383、33本塁打の打撃面では即戦力を期待されたが、一方で守備面は不安視されていた。福留本人はショートへの強いこだわりがあったが、担当の中田宗男スカウトは星野監督にこう助言したことを自著で明かしている。

「監督、なんやかんやいうて、福留は社会人では1回もショートを守ってないですからね。サードで使ったほうがいいんじゃないですか?」

 星野さんは、こう言って聞く耳を持とうとしなかった。

「アカン! 3年前から『ショートで使う!』と約束しとるんや。お前は要らん心配するな!」(星野と落合のドラフト戦略 元中日スカウト部長の回顧録/中田宗男/カンゼン)

守備には目を瞑り起用


 1999年春、オープン戦は27打席ノーヒットとプロの攻めに苦しむも、福留本人は週べの直撃に「オープン戦がこのままノーヒットで、開幕戦に打ったら、カッコいいスね」なんて強気な姿勢を崩さない。4月2日広島戦、ナゴヤドームで「二番遊撃」の開幕スタメンに抜擢されるも、2試合7打席に立ちノーヒット。3戦目にようやく二塁打で初安打を記録する。初アーチは11試合目の巨人戦でガルベスから放った。チームもプロ野球タイ記録の開幕11連勝を記録。この年の中日は好調で、新人の福留をスタメンで使い続ける余裕があった。

 4月28日の阪神戦であと単打を1本打てばサイクル安打という場面で、ショート福留に守備固めのベテラン久慈照嘉が送られる屈辱の体験もした。「オレに最後まで守らせてもえるような選手になれ」という星野なりの叱咤激励である。打撃では開幕7試合目まで打率.158に低迷も、5月30日には打率.281、6月25日の横浜戦で3安打の固め打ちで打率.301と徐々に調子を上げ、オールスターにも監督推薦で選出。8月4日の阪神戦では第12号の初球先頭打者ホームランを放ち、8月10日の阪神戦は初の三番に抜擢される。プロ入り後に6キロも体重が減ったが、同期入団の岩瀬仁紀と二人で焼き肉を食べに出かけ、束の間の開放感と好奇心から、普段利用しない名古屋の市バスに乗って寮まで帰ったこともあった。

プロ1年目、ショートの守備では苦戦した


 打撃は前評判通りの活躍。同時に不安視されていた守備もその予想が的中してしまう。エラーに加え、記録に残らないミスも多く、「1年間ショートで使う」と宣言した星野監督も、夏場からは三塁での起用も増えていく。9月4日の広島戦では、初めて左翼を守り、9回裏に西山秀二の平凡なフライを痛恨のサヨナラ落球。初めて二塁に入った巨人戦でもイージーなゴロを後逸。チームは9月15日の2位巨人との直接対決を落とし1.5差にまで詰め寄られるが、星野監督はそのポジションに頭を悩ませながらも、「守り? 下手なのは承知の上。でも、今のウチの打線であいつ以上に打てるやつがおるのか」と守備には目を瞑り起用し続けた。

日本シリーズでも守備でミス連発


リーグ優勝を果たし、祝勝会で星野監督[右]にビールをかける福留


 そして、9月30日の神宮球場で中日は歓喜の11年ぶりのVを決めるのだ。祝勝会では、星野監督に物怖じせずにビールをかける22歳の福留の姿があった。132試合、打率.284、16本塁打、52打点、OPS.810と主力打者の働き。一方で粗さも目立ち、新人記録を塗り替えるリーグ最多の121三振を喫し、守る方ではリーグワーストの19失策。ショートだけで13失策を喫し、事実上の遊撃失格の烙印を押されてしまう。プロ1年目を終え打撃ではそれなりの手応えはあったが、内野守備は一向に上達する気配すらなかった。例えば、PL学園の先輩・松井稼頭央(西武)が同チームの名手・奈良原浩を参考にしたように、福留にも先輩遊撃手の久慈という格好のお手本がいたが、レベルが違い過ぎて真似をすることすらできなかったという。

「模倣を考えたが、うまくはいかなかった。目の前にマネをする対象がいた。久慈さんである。簡単そうに打球をさばく。そのマネをしようとしても、僕にはできなかった。「簡単そう」。そう見えている、そう発想する時点で模倣できるはずがないのだ。結局、僕の中で“正解”は出ずじまいだった。もしあのころの僕に戻って、星野監督に「おまえの好きなところを守らせてやる」と言われたら……。素直に「外野でお願いします」と答えるだろう」(もっと、もっとうまくなりたい はじまりはアイスクリーム/福留孝介/ベースボール・マガジン社)

 その秋、王貞治監督率いるダイエーとの日本シリーズでも、福留は守備でミスを連発してしまう。「自分自身が情けないです」と消え入りそうな声でつぶやいた背番号1は、打撃でも精彩を欠き、18打数2安打の打率.111とスランプ状態に陥る。ダイエーが初の日本一に輝いた様子を報じる、1999年10月29日付日刊スポーツの「マッシー村上の採点簿」で、福留は第5戦で両チーム最低の10点満点中「3.0」をつけられ、「3回、満塁では併殺を狙える打球の失策で先制点を献上し、5回には二遊間のゴロをさばけない。記録にならない失策と打撃でのボール打ちで、みすみす流れを逃した」と酷評されている。

 守備の不安はその後も解消されず、福留は3年目の2001年シーズン後半に外野へ本格的にコンバートされる。星野の後任監督に内部昇格することが決まっていた山田久志の意向もあったが、結果的にこれが運命の別れ道となった。山田監督が就任した2002年、4年目の福留は松井秀喜(巨人)の三冠王を阻止すべく打率.343で自身初の首位打者を獲得。外野手として、ゴールデングラブ賞にも選出された。そのあとの男の人生は、あえてここで語るまでもないだろう――。

 プロ1年目、日本シリーズの表彰式の最中、一塁側ベンチの背番号1は帽子を目深に被り、泣いていた。今思えば、この屈辱の涙が、日米通算2450安打への長い旅の始まりだったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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