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愛すべき助っ人たち

落合博満に“弟子入り”、落合の不調では四番も 6年ぶりVとともに中日を去ったゲーリー【愛すべき助っ人たち】

 

愛されたモッカの後に


記者の取材を受けるゲーリー


 創設1年目は外国人選手がいた中日。だが、それも1年目だけで、1960年代に巨人からハワイ出身の与那嶺要が移籍してくるまでは、助っ人がいない時期が長かった。その後、メジャーの実績を重視して次々に獲得するも、必ずしも成功したとはいえず。一方で、メジャー経験がないジーン・マーチンが巨人のV10を阻むリーグ優勝の使者となり、中日での通算161本塁打が歴代トップとして残っていることは、この連載でも触れた。

 続いてメジャー通算1本塁打ながら、マーチン同様、来日1年目にリーグ優勝を呼び込んだのがケン・モッカだ。その人柄もあり、モッカがファンに絶大な人気を誇ったことも紹介した。その引退、退団を受けて、1986年に入団したのがゲーリー・レーシッチ。兄のデーブ・レーシッチ広島で1勝も挙げられず退団、ゲーリーもメジャー通算3本塁打と、前任のモッカとの比較もあって期待する声は大きくなかったが、ただ、これは中日の助っ人としては成功するパターンだった。

 その86年は阪神ランディ・バースが2年連続で三冠王となったシーズンで、本塁打王には届かなかったが、ゲーリーは1年目から四番打者を務めて36本塁打。ただ、打率.251、リーグ最多の105三振と、安定感には乏しかった。だが、翌87年にロッテから落合博満が移籍してくると、その打棒に感銘を受ける。落合は右打者、ゲーリーは左打者だったが、落合の“神主打法”を取り入れると、打順でも左の“神主”が三番、右の“神主”が四番に並び、87試合の出場で24本塁打を放ち、規定打席には届いていないが打率.317をマークするなど、ゲーリーの打撃にも安定感が増した。

 その翌88年は落合が例年にない不振。そんな“師匠”に代わって四番を務めたのがゲーリーだった。後半戦に入ると落合も復調して、中日は6年ぶりリーグ優勝を飾ったが、打率.293でセ・リーグの打撃十傑に食い込んだものの、16本塁打と破壊力を落としたこともあり、ゲーリーはオフに解雇され、帰国する。ちなみに、この88年シーズン中盤まで中日の二軍でくすぶっていたのが、近鉄で活躍するラルフ・ブライアントだった。

写真=BBM
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