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8月15日に想うこと

神風攻撃隊、石丸進一君の思い出(前編)/『鈴木龍二回顧録』

 

 セ・リーグ会長を長く務めた故・鈴木龍二氏。カミソリとも言われた切れ者で、日本プロ野球の礎をつくった偉人の一人である。彼の著書『鈴木龍二回顧録』(小社刊)は、1リーグ時代の歴史を調べる者にとって、バイブルのような存在だ。今日は8月15日──その一部を再録し、戦火に散ったプロ野球選手たちを偲びたい

東京壊滅、多くの名選手を戦火に失う


東京ドームそばにある鎮魂の碑


(昭和)20年になると一段と大規模になり激しくなる空襲に、日本はもういけない、たぶん負けるだろう、負けたら生きてはいられない、生きていても仕様がないな、と実際のところ、国と生死を共にするのだ、という虚無的な気持ちになった。

 そんなとき考えるのは、現役兵として、あるいは召集されて、戦場のどこかへ送られているであろう選手のことであった。

 彼らの消息はまったく不明だった。だが戦争が終わってしばらく経つと、未帰還選手の消息が次第にはっきりしてきた。

 プロ野球は、多くの有能な選手を失った。沢村栄治吉原正喜景浦将も還ってこない。彼らがどのような状況で戦死したのか、それを知る手掛かりはない。

 そんな中ですでに多くの人のペンによって書かれているのが、石丸進一君の戦死であった。

 石丸君の登録を、名古屋の代表赤嶺君から受けたのは、16年の春であった。名古屋の二塁手石丸藤吉君の弟で、佐賀商業では投手をやっていたということであった。

 しかし16年には内野手として出場していた。あまり大柄ではなく、いかにも田舎出らしい朴訥な感じの若者であった。

 17年春、のちサイパンで戦死した投手の村松幸雄君が入営すると、石丸君はさっそく投手として活躍を始めた。そして18年になると、一躍してエース格の投手になった。名古屋は巨人と争い2位になった。これは石丸君の活躍によるものであった。

 この年11月13日から行われた東西対抗に、石丸は兄石丸藤吉とともに東軍に選ばれている。兄藤吉が心配して「しっかり投げろ」と、マウンドの弟を激励すると、

「オレは大丈夫だ。それより、しっかり守れ」

 と、弟進一が兄を励ましたといわれたものだが、プロ野球史上でも兄弟で投手と内野手というのは珍しい。

 東西対抗を最後に、石丸は12月1日、佐世保海兵団に入団する。このとき航空兵として選ばれ、土浦航空隊に配属されたことが、石丸君の運命を決める。(続く)
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