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8月15日に想うこと

神風攻撃隊、石丸進一君の思い出(後編)/『鈴木龍二回顧録』

 

 セ・リーグ会長を長く務めた故・鈴木龍二氏。カミソリとも言われた切れ者で、日本プロ野球の礎をつくった偉人の一人である。彼の著書『鈴木龍二回顧録』(小社刊)は、1リーグ時代の歴史を調べる者にとって、バイブルのような存在だ。今日は8月15日──その一部を再録し、戦火に散ったプロ野球選手たちを偲びたい

おい生きて帰れよ、また野球をやろう、待っているぞ


鎮魂の碑


 土浦航空隊で、航空兵としての訓練を受けた石丸君は、やがて筑波隊という舞台に編入され、速成の猛訓練を受ける。

 このころ、すでに艦船の大部分を失った海軍は、米軍の沖縄上陸作戦に備えて、爆弾をかかえた航空機に乗っていってそのまま敵艦に体当たりする“神風攻撃隊”といわれた特別攻撃隊の訓練と編成に着手していた。

 石丸君の筑波隊は、特別攻撃隊の訓練をする部隊であった。石丸君が筑波隊で猛訓練を受けるより前の19年10月25日、文字どおり死を覚悟して突っ込む“神風特別攻撃隊”の第一陣、敷島隊が、スルアン島海域で敵空母を体当たりで撃沈したと、新聞で大きく報道されていた。

 訓練を終わった石丸君は、やがて九州の鹿屋基地へ配属される。鹿屋こそ神風特別攻撃隊の基地であった。

 石丸君が出撃したのは、5月11日午前6時55分であった。出撃の命令を受けた石丸君は、新しいボールとグラブを手に兵舎の庭に出て、本田という法政大出の少尉を相手にキャッチボールを始めた。

 本田少尉が「よし! 一本」と数える。それを10球まで数えたところで兵舎を後にして、愛機のところに歩んだ。やがて機上に上ると、ボール、グラブと、鉢巻きにしていた“敢闘”と書いた手拭を、投げ落とした、といわれている。

 すべてを断ち切って、まっしぐらに体当たりする決意を示したものであったろうか。

 キャッチボールをした新しいボールは、筑波隊から鹿屋への転属を命ぜられて、休暇を得た4月18日、東京・小石川の春日町近くにあった理研工業本社に、赤嶺昌志君を訪ねて、無心して手に入れたものであった。

 石丸君はこの日、東京駅から徒歩で、2時間もかかって理研工業を探しあて、赤嶺君を訪ねたのだという。当日は、選手兼マネージャーをしていた小阪三郎君も同席した。

「海軍少尉の軍服を着て訪ねてきたときにはびっくりした。見違えるようになっていた。ボールがほしいというので、おい生きて帰れよ、また野球をやろう、待っているぞ、と言うと、赤嶺さんもお元気で、と挙手の礼をして帰って行った。あのとき石丸は、もう死を覚悟していたのですね」

 のちに赤嶺君から聞かされた話である。

 赤嶺君のところへは「野球がやれたことは幸福だった。24歳で死んでも悔いはない」という意味の遺書ともいえる手紙が届いている。父親には「忠孝を貫いた一生だった」という意味の遺書が書き残してあったと聞いている。

 真っ白なボールでキャッチボールをしているとき、石丸君の胸中には、生も死もなく、ただ一個の白球だけがあったのであろうか。

 石丸君が出撃してまもない5月24日、25日の両日大空襲を受けて皇居も炎上し、東京から横浜まで、京浜地区は壊滅する。断末魔の日本に止めを刺したのは、8月6日、広島に投下され、「人道を無視する残虐爆弾」と、当時発表された原子爆弾であった。

 それからわずか3カ月、プロ野球の再建は始まったのである。
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