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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】大型補強全盛期の長嶋巨人で1年目からレギュラー奪取! 叩き上げの安打製造機・清水隆行

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

高校限りで野球を辞めるつもりだった


プロ1年目の清水


 1995年12月12日、東洋大の大会議室に定刻通りに来た記者は、たったの1人だった。

 巨人からドラフト3位指名を受けた清水隆行が仮契約を結び、会見に臨む段取りも大会議室は閑散としていた。同じく巨人2位の仁志敏久(日本生命)の仮契約と重なり、ほとんどの記者は逆指名入団でアマ球界のスター選手だった仁志の元に行っていたからだ。当時の「週刊ベースボール」によると、ただひとり清水の取材に来た記者が気をきかせ、巨人の球団事務所で契約更改の取材に当たっていた他の記者に動員をかけて、会見場を埋めたという。ドラフトの指名順位はひとつしか違わないが、そこにはすでにプロの世界の残酷なほどの大きな格差社会があった。

 東京・足立区で生まれた清水の野球に対する初めての記憶は、幼少期にテレビで見た王貞治のホームランだったという。4歳になる直前、世界記録の756号アーチを放った王のようになりたいと清水は夢を抱くようになる。兄のあとを追うように野球を始め、小学6年生で身長147cmと小柄ながらも、足立北リトルでは全国大会で準優勝を経験。江戸川ポニーでプレーした中学時代は2年生になると身長も175cmを超え、日本選手権で準優勝に輝き、偏差値65もある優等生だった清水は浦和学院へ進学する。高校通算20本塁打を放ったが、同学年の強肩強打で鳴らした鷹野史寿(元楽天ほか)の方が評価は高かった。最後の3年夏は、甲子園には遠く届かない県大会ベスト32で敗退。この時点で、清水は野球を辞めて、大学か専門学校へ進もうと考えたという。子どもの頃はプロ野球選手に憧れるも、18歳になると夢に区切りをつけて、リアルな人生を生きようとする。清水も普通の青春を送る高校3年生だった。

「そんなある日、浦和学院の監督から「東洋大でセレクションがあるから受けてきなさい」という連絡があった。記憶は定かではないが、このセレクションは夏の甲子園が始まる直前か、真っ最中に行なわれた。つまり、甲子園に出場を果たしたような全国的に有名な選手は参加していない。いわば、負け組のセレクションである」(プロで成功する人しない人/清水隆行/竹書房)

東洋大時代の清水


 ヤングルーザーたちが集う真夏の入部テスト。正直、「野球はもういいかな」と思っていたが、自分がダラダラとプレーすると浦和学院の評判を落としてしまう。黙々とメニューをこなした清水は、結果的に合格通知を受け取ることになる。実は東洋大野球部の高橋昭雄監督は、以前から清水のバッティングに目をつけていたという。

「清水が高校3年のとき、浦和学院と合同練習をやってね。ウチの4年生だった桧山進次郎(阪神)と並んでバッティングさせた。高校の四番と大学の四番。そのころから清水は思い切りがよくて、桧山と比べても甲乙つけがたい印象だったよ」(週刊ベースボール1996年7月22日号)

 だが、実際に入部すると同期の甲子園出場組がレギュラーの練習に参加するのを横目に別メニューの日々。運命が変わったのは、3月の社会人・本田技研とのオープン戦だった。突然、代打で指名された清水は左打席に入ると、この年のドラフトで広島から1位指名を受ける佐藤剛から、グラウンド後方の道路まで飛び出す特大アーチを放ってみせたのである。無名の1年生がプロ注目の社会人右腕からかっ飛ばした完璧なホームランは、その後の野球人生を切り開くきっかけとなった。

センスある打撃に長嶋監督も注目


巨人入団会見。後列左から3人目が清水だ


 3年春には打ちこみのやり過ぎで右手てのひらを骨折するアクシデントに見舞われるも、怪我が癒えた4年時には福岡ユニバーシアード大会で日本代表チームの四番を務め、広い福岡ドームで1試合2本塁打を記録するのだ。東都No.1の大型スラッガーと称され、1995年のドラフトでは希望通り巨人から3位指名。巨人が原俊介(東海大相模)を抽選で外した場合は、外れ1位候補として報じられるほど前評判は高かった。

 担当の城之内邦雄スカウトからは、「とりあえず3年はがんばってみろ」と声をかけられ、3年は死にもの狂いで野球に打ちこもうと心に決めた。1年目の1996年春季キャンプは、前年限りで現役を引退した原辰徳の背番号8を継承した仁志と、異例の8年契約で入団した韓国代表右腕のチョ・ソンミンが注目を集めており、背番号35の清水は決して話題の新人というわけではなかった。しかし、初めてのキャンプで披露したセンス溢れるバットコントロールに長嶋茂雄監督は、「清水はいいですよ。非常に柔らかい打撃をしています。将来は必ず、松井と並んでウチのクリーンアップを打ってくれるはずです」と絶賛。武上四郎打撃コーチも「キャンプで一番、バットを振った男なら、それは清水だろうね。1日、千本は振ったと思うよ」とその厳しい練習に耐えうる体力と精神力を併せ持つルーキーに期待を寄せた。

 当初は二軍でじっくり育てる予定も、22歳の若者は紅白戦やオープン戦で結果を残し続ける。開幕直前の西武とのオープン戦では、レギュラー外野手のシェーン・マックが試合前練習で頭部に打球を受け、代役出場の清水が郭泰源からホームランを放ち、開幕一軍入りを決定づける。仁志が開幕スタメンで猛打賞のド派手なデビューを飾ったのは対照的に、清水は開幕2戦目に代打で初出場。当時の巨人外野陣は、右翼・松井秀喜、中堅・マック、左翼・広澤克実とレギュラーが固定されていたが、オープン戦で広澤が死球を受けて骨折。長期離脱したことで清水にも早々にチャンスが回ってくる。

 4月14日の横浜戦、「六番左翼」で初スタメンを飾ると、島田直也からプロ初安打を記録。4月23日の広島戦では加藤伸一から代打でプロ初本塁打を放つが、レフト守備ではバックホームを焦りボールを大きくはじく失策で決勝点を許す。守備面では不安を抱えていたが、5月10日の阪神戦で初の猛打賞に4打点の大活躍。打率を3割に乗せ、スタメンに定着していく。5月19日のヤクルト戦では、田畑一也から先制の4号ソロアーチを放ち、完封勝利のガルベスと並んで初めて本拠地・東京ドームのお立ち台に上がった。

生存競争の厳しさを感じて


1年目からシュアなバッティングを披露した


 対左投手では先発を外れることもあったが、6月30日の広島戦で7号、8号を連発した清水は、大卒と高卒の違いはあれど憧れの王の1年目の本塁打数を早くも超えた。巨人戦中継が地上波テレビで毎晩視聴率20%以上をマークする90年代の社会背景もあり、メディアはノーマークのルーキーの快進撃をこぞって報じるようになる。週べでも度々特集記事を組んでいるが、試合に出続けながら、連日の早出特打ちとウエート・トレを休むことなく続ける清水のタフさには、球団のコンディショニング・コーチも驚きを隠さない。

「運動量が増えているのに、体重は変わらない。食欲も落ちてないというしね。この世界は食べるのも仕事。食べないヤツはレギュラーを張れない。清水は本当にしぶといよ」(週刊ベースボール1996年6月3日号)

 そして、7月9日の広島戦では、札幌の地で巨人逆転Vの「メークドラマ」のきっかけとのちに語られることになる、9者連続安打の9人目としてライト前にヒットを放った。とは言っても、当時の清水には、この試合が分岐点だなんて考える余裕はなかったという。以降、チームは最大11.5ゲーム差あった首位広島を猛追していく。8月15日横浜戦、同点で迎えた9回表にしぶとく決勝打。8月30日の中日戦でも延長12回表に試合を決めるタイムリー三塁打と背番号35の新人らしからぬ勝負強さは長嶋巨人の欠かせないピースとなっていく。規定打席にはわずかに足りないものの打率3割をキープする清水と、「一番三塁」に定着した同僚の仁志との新人王争いも話題に。だが、ふたりはその渦中の週べの対談企画で、憧れの巨人での生存競争の厳しさを口にしている。

シーズン中に仁志と対談。ツーショットは週べ表紙にもなった


仁志「自分じゃ、レギュラーだなんて思ってないね。まだ、2日続けてタコ(ノーヒット)ったらまずいって考えるし……。自分自身の中で、そんなプレッシャーとの勝負もある。1日タコると、次の日は1本でも打たないと外される、という危機感みたいなものかな」

清水「僕としたらまだ、打てなかったらいつ、下(二軍)に行けって言われるか分からない、という不安がありますね。だから、打率がどうこうよりも、1本ヒットが出たら、これでもうちょっと上(一軍)に置いてもらえるかな、という気持ちが強いです」(週刊ベースボール1996年9月16日号)

 長嶋巨人は129試合目のナゴヤ球場で優勝を決め、清水は107試合(307打席)で84安打を放ち、打率.293、11本塁打、38打点、9盗塁、OPS.821という好成績を残した。イチロー擁するオリックスとの日本シリーズではわずか1安打に終わり、新人王こそ仁志に譲ったが、球団からの評価は高く初めての契約更改で年俸は推定960万円から一挙に3倍増の2800万円へ。さらに私生活でも大学時代から付き合っていた女性と3年間の交際を実らせ結婚。巨人の主力選手たちが集うオロナミンCのCM出演も決まった。

松井秀喜の成長の原因のひとつ


リーグ優勝の祝勝会で美酒を浴びた


 結果的に1996年の長嶋巨人は松井が自身初のMVPに輝き、ふたりのルーキーがスタメンに定着したチームの世代交代を象徴するシーズンとなった。同年限りで巨人を退団した落合博満は、ルーキー清水の練習量を間近に見て、自著にこう書き記している。

「松井の成長の原因のひとつは清水(清水隆行)の存在だね。あの子は今のジャイアンツには珍しくよく練習しているもの。よくバットを振っているもの。松井と清水は年齢が近いでしょう(清水が1歳上)。その清水が入ってきて、松井はずいぶん刺激を受けたと思う」(不敗人生 43歳からの挑戦/落合博満・鈴木洋史/小学館)

 清水が入団した1990年代中盤以降の長嶋巨人は、終わりなき大型補強時代へと突入していた。落合博満、広澤克実、清原和博江藤智ら各チームの四番バッターを毎年のようにFA獲得。逆指名ドラフトでも、高橋由伸上原浩治二岡智宏阿部慎之助ら大学球界のトッププレーヤーたちがこぞって巨人のユニフォームを着る一極集中の異常な時代だった。

 松井や高橋といった同世代のスター選手が顔を揃え、補強組の四番候補で溢れていたからこそ、「プロでどう生き残るか?」を真剣に考えた清水は一番や二番打者の役割に活路を見出すのだ。背番号9に代わった2002年には、原辰徳新監督に一番で起用されると球団最多記録の年間191安打を放つ。大型補強のあおりで開幕時はベンチに座ろうと、シーズン中盤には気がつけば清水がレギュラーを奪取しているケースも多々あった。

 巨人で13年、西武で1年。通算14年間のプロ生活で積み重ねたヒットは1428本。その男のプロ生活は、大物揃いの長嶋巨人において、ドラフト3位からの下克上でレギュラーを掴んだ、あの1年から始まったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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