週刊ベースボールONLINE

プロ1年目物語

【プロ1年目物語】プロ初登板ノーヒットノーランの快挙も3年目以降は1勝もできず…悲運のサウスポー近藤真一

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで──。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

星野監督の“初仕事”


プロ1年目の近藤


「先発に近藤? くるわけないだろ。新人は、こういう大事なときに打たれて負けるとショックが大きいものなんだ。とても出せるもんじゃないよ」(週刊ベースボール1987年8月24日号)

 1987年8月9日、巨人王貞治監督は、中日戦の試合前にそんなコメントを残している。もちろん当時は予告先発はない。首位巨人と中日のゲーム差は3.5。絶対に負けられない中日の星野仙一監督は、周囲の予想に反してひとつの決断をくだす。前日に一軍昇格したばかりのドラフト1位左腕を先発マウンドへ送るという決断である。

 近藤真一は、星野にとっても特別な思い入れのある投手だった。前年オフに39歳で新監督に就任した星野は、直球とカーブだけで三振の山を築く享栄高のアマ球界No.1サウスポーに惚れ込み、「近藤は絶対に逃すな!」と厳命。近藤も星野と同じく幼少時に父親を亡くし、母の手ひとつで育てられた共通点もあった。複数球団の争奪戦が予想されたが、中日のスカウトは抽選の勝利を願い神社に祈願に出かけたという。迎えた1986年ドラフト会議、星野は5球団競合の末に自ら当たりクジを摑みとる。いわば、監督としての初仕事が近藤を引き当てることだったのだ。そして、それは工藤公康槙原寛己といった地元の逸材投手を他球団にさらわれ続けていた中日球団にとっても、ようやく手に入れた“愛知の星”でもあった。中日入りを熱望する近藤と、その想いに応えた青年監督の星野。この1カ月後には、ロッテとの1対4の大型トレードを成立させ、三冠王の落合博満も獲得してみせた。いわば星野中日の船出は、近藤と落合の入団から始まったのである。

ドラフトで星野監督[左]がクジで引き当てた末、中日に入団した


 だが、1987年の1月、合同自主トレに参加した近藤を待ち受けていたのは、減量指令だった。地元の祝福ムードの中で満足な練習もせずに数カ月を過ごしたため、10kg近くもベストの体重を超えていたのだ。それからは春季キャンプでも走り込みメニュー中心の日々。身長183cmの大型左腕は、上体の力に頼ったフォームが故障の危険性も度々指摘され、中日も金の卵をまずは焦らずじっくり育てるスタンスだった。

 3月12日には、地元でのロッテ相手のオープン戦に顔見せ的に先発して2イニングを投げることもあったが、開幕は二軍スタート。4月中に岡山県玉野市で基礎体力づくりが目的のミニキャンプを敢行する。しばらく本格的な投球はせず、ランニングやウエートトレーニングに励み、たまにマウンドに上がると打撃投手を務めた。ウエスタン・リーグでのデビューは6月17日の阪神戦で、2回1安打無失点。6月28日の阪急戦では、享栄高時代の同級生でドラフト5位の長谷部裕とバッテリーを組み、6回2失点でウエスタン初勝利を挙げた。当時の週べ「こちらファーム情報局」コーナーには、稲葉光雄二軍投手コーチの「まだまだ時間はかかります。じっくりと育てますよ」という慎重なコメントが掲載されている。

「池さん、高校生がおるだろう」


 同期のドラフト3位右腕・西村英嗣をライバル視して、自身の帽子に「打倒西村」と書き込んでみせる負けん気の強いドラ1左腕(なお同年2位は愛工大名電高の大型捕手、山崎武司である)。近藤は夏場までにウエスタンで7試合に投げて3勝0敗、防御率1.29。8月4日の南海戦では、2安打9奪三振の初完封を挙げた。その頃、一軍の星野中日は首位の巨人を僅差で追っていたが、8月7日からナゴヤ球場で巨人三連戦が組まれていた。その9日の3試合目がローテーションの谷間だったのだ。前日の8日夜、試合後の風呂場で池田英俊投手コーチが「監督、明日の先発がいません」と伝えると、星野はこう答えたという。「池さん、高校生がおるだろう」と。

 実はこの8日に近藤は初めての一軍昇格をしていたのだ。そして、翌9日の試合前練習を終え、背番号13がベンチに戻ったタイミングで池田コーチが、「きょう投げてみるか」と話しかける。「えっ、ホントに……ですか」なんて絶句する18歳のサウスポー。極度の緊張に襲われ、プレーボールまでの2時間がやたらと長く感じられた。

「前日に一軍に呼ばれたばかりでしたし、それも戦力ではなくて、自分の中ではお手伝いとして呼ばれたという感覚だったんです。僕はこの日の先発は鈴木孝政さんだとばかり思っていました。まさか自分が先発するなんて、とてもじゃないけど思っていませんでした。投げてみたいと思う反面、こんな大事な時期(首位巨人と3.5差)に、自分なんかが先発していいのかという気持ちでした」(週刊ベースボール2000年12月11日号)

キレのある直球、カーブで巨人打線を抑え込んだ


 巨人ベンチも先発は右の鈴木と読んで、スタメン野手に5人の左打者を並べていた。近藤はプレーボールがかっても、マウンド上で足の震えが止まらなかったという。いかにも気の強そうな風貌をしたゴールデンルーキーも、素顔はエビフライが大嫌いで、中森明菜の熱烈ファンで、趣味は長電話とショッピングという普通の18歳だった。緊張と恐怖が頭の中を支配する。1987年8月9日18時20分、巨人の先頭打者・駒田徳広に投じた第1球は高めに浮くボール球になるが、駒田はボールに手を出してファウルとなる。これが運命を左右する一球となった。

「気持ちがすごく楽になったんです。マウンドに上がったとき、何が一番心配だったかと言えば、笑われるかもしれませんが、ストライクが入るかなということでした。それほど緊張していたんです」

 結果的に先頭の駒田を143キロのストレートで三球三振に打ち取り、この夜は長い球史でも特別な試合となる。週べ1987年8月24日号に掲載された、近藤と対戦した巨人打者のコメントは以下の通りだ。

クロマティ「あれでルーキーか? グッド・ピッチャー」

中畑清「打てそうで打てなかった。あのカーブだな、問題は……。三振? フォークボールのようだった」

原辰徳「ぼくにはあまり内角を攻めてこなかった。カーブにやられたねえ。ノーヒットノーランをくったのなんて野球をやってはじめてだ」

プロ野球史上初の快挙を達成


デビュー戦でノーヒットノーランを成し遂げメディアからの注目度も一気に増した


 20時53分、最後は篠塚利夫からカーブで見逃し三振を奪いゲームセット。両手を突き上げ、派手なガッツポーズを決めたルーキー近藤の投球内容は、116球を投げ13奪三振、2四球、1失策。9回を投げきり、1本のヒットも許さなかった。つまり、近藤真一はデビュー戦でノーヒットノーランを達成したのである。プロ野球史上55人目、67回目(当時)の快挙だったが、もちろんプロ初登板での達成は史上初。18歳11カ月は、金田正一の18歳1カ月、沢村栄治の19歳7カ月という伝説の投手たちの十代ノーヒットノーランと比較された。

 そして、週刊ベースボール1987年8月24日号の表紙は、発売3日前に急遽「やった! ルーキー近藤(中日)巨人をノーヒットノーラン」に差し替えられる。バッテリーを組んだベテラン捕手の大石友好

「特に右打者の内角へのカーブがよかった。途中から自分でサインを出してくるんだから大した男ですよ」

 とそのハートの強さに舌を巻いた。2本のホームランを放ち、ルーキーを援護した四番の落合博満は、終盤の8回と9回に三塁手として3つのゴロを処理したが、「あれほど緊張して守ったことはないよ」と試合後に安堵のコメントを残している。

 鮮烈デビューを飾ったニュースター近藤は、8月23日の阪神戦でも1安打完封勝利のあわやパーフェクト投球。19歳の誕生日を迎えた9月は一時期、勝ちから見放されるも、30日の巨人戦でまたも完封勝利と一躍時の人となる。1年目は11試合(58.2回)で4勝5敗、防御率4.45。それでもノーヒットノーランを含む3完封のインパクトは凄まじく、中日は2位に終わるも、契約更改では150パーセントアップで年俸400万円から一気に1000万円プレーヤーへ。大晦日の紅白歌合戦にも審査員として呼ばれるバラ色のオフを過ごした。

「でも、希望だった中日への入団、そしてノーヒットノーランの2つで僕の運は全部使い果たしてしまいましたね」(週刊ベースボール2000年12月11日号)

8年間の太く短いプロ生活


 その完璧すぎるデビューの記憶は、やがて伝説となり、同時に足枷にもなった。背番号1に変更した2年目の88年には24試合(110回)で8勝7敗、防御率3.44。前半戦だけで7勝を挙げ、チームは6年ぶりのリーグ優勝を飾る。高卒2年目の先発投手としては決して悪い数字ではないが、ルーキーイヤーの輝きが強烈だっただけに後半の失速は物足りなさばかりが残った。それ以降の近藤は故障との戦いに終始する。3年目の89年5月にはロサンゼルスで左肩の手術、91年オフには左ヒジのトミー・ジョン手術と満身創痍で、球速は全盛期より10キロ以上落ちて130キロ台前半がやっとだった。真一から真市へ改名して、打者への転向も考えるなど最後まで必死にあがいたが、3年目以降は勝ち星を挙げることができず。最後は94年秋季キャンプのテストも兼ねたシート打撃で若手にいいように打たれて、引き際を悟った。すでに一度目の監督の座を退いていた星野に引退の意思を報告すると、「あれだけの記録を作ったのだから、ピッチャーの近藤で終われよ」と背中を押されたという。まだ26歳の若さだったが、94年限りで現役引退。8年間の太く短いプロ生活だった。
 
「あの1年(1987年)だけはプロっていいなあと思いました。残りの7年はホント苦痛でしたね。ケガしなかったら、どれぐらいできただろうなと思ったこともあります」(ベースボールマガジン2022年4月号)

 近藤は中学時代から、カーブを多投したため慢性的な左ヒジ痛に悩まされ、体の硬さが故障に繋がると指摘されていた。中日もそれを分かった上で、慎重に体力作りからスタートさせている。最初の1年間はじっくりファームで育てるはずだったが、闘将・星野が打倒巨人を託したくなる才能の煌めきが18歳のサウスポーにはあったのだ。通算52試合で12勝17敗。キャリア晩年は一軍での登板そのものが激減しており、その生涯成績を知るファンは決して多くはないだろう。だが、37年前のあの夏、ナゴヤ球場で躍動したプロ1年目の近藤真一の奇跡のようなデビュー戦は、今なお多くの野球ファンに語り継がれている。

文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング