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愛すべき助っ人たち

「AKB」といえば西武? デストラーデの前に秋山幸二、清原和博の後を打ったバークレオ【愛すべき助っ人たち】

 

デストラーデの加入で……


88年に38本塁打を放って優勝に貢献したバークレオ


「AKB」といえば、ほとんどの人がアイドルグループを思い浮かべるだろう。かつての西武を思い出す人は少ないはずだ。一方、かつての西武で「AKD」といえば、1989年シーズン途中から92年まで、秋山幸二清原和博オレステス・デストラーデが三番から五番に並んだ強力クリーンアップのこと。「AKD砲」ともいう。ただ、それ以前は、とても短い期間だったものの、クリーンアップのトリオは「AKB」だったのだ。

 もちろん、顔ぶれが異なる。秋山と清原は同じで、助っ人が「B」。87年シーズン途中に入団したタイラー・リー・バン・バークレオだ。当時の外国人枠は2人まで。このときの西武には投手の郭泰源、外野手のジョージ・ブコビッチがいて、1年目は出場機会がなかった。そのオフにブコビッチが退団。バークレオの快進撃が始まる。80年代は、まだまだ多くの助っ人がメジャー経験は豊富ながら全盛期を過ぎていたような時代。88年はバークレオにとって26歳になるシーズンで、その若さは異色でもあった。

 一方、当時の西武は黄金時代でもあり、資金も人材も豊富。外国人枠に収まり、開幕スタメンに名を連ねたとしても、バークレオは七番でのデビューとなった。だが、開幕2戦目で初本塁打をグランドスラムで飾ると、一気に注目を集める。その後も着実に本塁打を積み重ね、「AKB」に定着。最終的には38本塁打となり、西武はパ・リーグで初めて同一チームから3選手が30本塁打を超えたチームとなった。また、88年は近鉄の奮戦で西武が全日程を終えてから優勝が決まったシーズンでもある。このリーグ4連覇にはバークレオの存在は不可欠だっただろう。

 だが、バークレオは翌89年に失速。やはりシーズン途中に来日したデストラーデが驚異的な打棒を発揮したことで、外国人枠に阻まれるようになっていく。郭の故障などで一軍で活躍したときもあったが、郭が復帰すれば、二軍へ戻らなければならなかった。90年にはイースタン本塁打王となっているが、これは二軍が長いことの裏返しでもある。91年に広島へ移籍も、1年で退団、帰国した。

写真=BBM
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