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愛すべき助っ人たち

「イチロー」「パンチ」の時代…仰木彬監督のマジック? 異色の登録名D・J【愛すべき助っ人たち】

 

がんばろうKOBE、Vの使者


自らのユニフォームを手にするD・J。左は仰木監督


 1994年にプロ野球で初めてシーズン200安打を突破したオリックスイチロー。本名から異色の登録名に変更して1年目の快挙だったが、その後のイチローについては、ここであらためて触れる必要もないだろう。これも“マジシャン”の異名もあった仰木彬監督の手腕と言ってもいいかもしれない。以降、選手の登録名は一気に自由度が上がった。なお、同じタイミングで人気者の佐藤和弘も登録名を「パンチ」と改めたが、オフに現役を引退。ただ、その後もタレント「パンチ佐藤」として活躍を続けている。その「パンチ」が去ったオリックスに入団した助っ人が「D・J」ことダグ・ジェニングスだ。

 とはいえ、母国で小さいころからニックネームで「D・J」と呼ばれたというから、本人にとっては異色でもなんでもなく、むしろ馴染みのある呼称だっただろう。だが、迎えた95年は開幕から不振。1月に阪神・淡路大震災が発生、「がんばろうKOBE」を合言葉に結束したオリックスは、絶不調の助っ人とは対照的に快進撃、6月には首位に浮上した。覚醒は7月。中西太ヘッドコーチ、新井宏昌コーチの指導が実を結び、D・Jは打ちまくった。7月、8月と連続で月間MVP。8月8日の近鉄戦(ナゴヤ)からは2試合にまたがってプロ野球記録に並ぶ4打席連続本塁打もあった。

 チームはオリックスとなって初のリーグ優勝。序盤の不振があってシーズン成績に目立つ数字はないが、この夏場の爆発に続き、日本一はならなかったものの、ヤクルトとの日本シリーズでも第4戦(神宮)で延長12回に決勝弾を放つなど、記憶に残る活躍を見せた。翌96年も数字に派手さはないが、優勝決定試合では本拠地での優勝を期待する地元ファンの前で9回裏二死から起死回生の同点ソロ。イチローの劇的なサヨナラ打につなげている。

 その翌97年は近鉄で「C・D」の登録名でプレーしていたクリス・ドネルスが加入、出場機会を失い、閉幕を待たずに退団。なお、ドネルスはオリックス2年目となる98年は登録名を「C・D」に戻すも徐々に失速。99年は「ドネルス」に戻すも一軍出場なく、退団している。

写真=BBM
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