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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】セ新人40年ぶりの打率3割、史上初の新人外野手Gグラブ!「天才・高橋由伸」衝撃デビュー!

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

最終的に巨人を逆指名


プロ1年目の高橋


 彼なら「平成の長嶋」になれる――。

 27年前の平成9年秋、長嶋茂雄がそう絶賛した大学生がいた。慶応大の外野手、高橋由伸である。当時の『週刊ベースボール』でも1997年11月24日号、12月1日号、12月8日号、12月29日号、1998年1月5日・12日号、1月26日号と立て続けに表紙を飾る異例のヨシノブフィーバー。当時は逆指名ドラフトで、もちろん六大学新記録の23本塁打を放った10年に1人の天才スラッガーに対して、プロ9球団が手を挙げる激しい争奪戦が繰り広げられる。出身地・千葉のロッテは地元で逆指名嘆願の署名運動まで行なわれ、在京志向から一時は横浜が本命と言われたが、最終的にヤクルト西武巨人の三つ巴に。

 10月の時点では外野のレギュラーが固定されていた巨人が劣勢で、フジサンケイグループが後押しするヤクルトと、慶大の先輩・高木大成がプレーする西武の一騎打ちと見られていた。週べ97年11月24日号掲載の特集記事「高橋由伸(慶大)『巨人逆指名』までの紆余曲折」によると、11月3日早慶戦が終わった夜、野球部を引退する4年生は三田キャンパスで納会に参加したが、その二次会の前に慶大の後藤寿彦監督が同席した高橋家の家族会議が開かれる。ちなみにこの段階では、ヤクルトと西武の球団関係者はそれぞれ「由伸はウチにくる」と思っていたという。4日午前1時の時点ではヤクルト、その1時間後には西武に気持ちが傾くも結論は出ず、深夜3時過ぎまで話し合いは続き、午前4時頃に日吉の慶大合宿所に戻った高橋は最終決断を下す。その数時間後の4日午前10時11分、慶大キャンパス内の藤山記念館大会議室に集まった約200人の報道陣の前で、「本日、私、高橋由伸は読売ジャイアンツを逆指名させていただきます」と発表するのである。

長嶋監督[左]とともに巨人との仮契約に臨んだ


 その疲労と緊張からくる高橋本人の硬い表情に、マスコミは熱狂的な長嶋ファンでG党の父親の不動産投資問題や莫大な契約金等を書き立てたが、不思議と高橋本人にダーティーなイメージがつくことはなかった。そして、長嶋監督は高橋の逆指名に狂喜乱舞のコメントを残している。

「東京から電話があってまず“万歳三唱”しました。これほど喜びを感じたことはなかった。よく決断してくれた。非常にセンスのあるプレーヤー。松井(秀喜)とは違う柔らかみを持っている。あえていえばイチロータイプかな。走れる、守れる、肩も強い。あらゆる面でプロ向きの選手です。ベースからベースを回るあの足の運びと、体全体の躍動感。あれは10年どころか20年に一人の逸材。ありゃ内野手向きで、しかもファンに近いサード向きだ。自分でいうのもアレだけど、長嶋みたいな三塁手になれるよ」(週刊ベースボール1997年11月24日号)

キャンプではバレンタインデーに女性ファンから多くのチョコレートが贈られた


 もはや興奮しすぎて勝手にサード転向案をぶち上げるご機嫌なミスター。学生時代のバレンタインデーにはチョコを持った女子が教室に殺到して、拡声器を持った教師がそれを警備した伝説を持つドラフト1位のプリンス高橋に対してはスポーツ紙だけではなく、女性誌など野球メディア以外からの注目度も高かった。 年が明けた1998年1月、新人合同自主トレで風邪を引きキャンプ2軍スタートとなり、取材が殺到したことによるトレーニング不足が不安視されるも、2月中旬には一軍昇格。すぐさま週べでも「天才・高橋由伸を解剖する」という特集が組まれ、見出しから「頭も技術も柔らか。その巧さは力強さを上回る次元の違う巧さ。大変な打者の出現だ!」と大絶賛されている。「高校、大学でのキャリア申し分なし。マスク申し分なし。性格良し。冷静さもありそうだ。ドラマ性も十分だ」と称賛の嵐。初めての紅白戦では初アーチを含む5打数4安打5打点と期待以上の大活躍を見せる。

前評判通りのプレー


東京ドームで行われた4月7日の広島戦でプロ初本塁打を放った


 オープン戦でも右翼守備で、大学時代に投手として148キロを記録した強肩を披露すると、長嶋監督は「高橋は巨人の野球を変えます」とまで言い切った。オープン戦ルーキー大賞に選出され、1998年4月3日、23歳の誕生日に迎えた野村ヤクルトとの開幕戦。慣れ親しんだ神宮球場で「七番右翼」でスタメン出場を飾り、第3打席でサウスポー高木晃次の初球を捉えライト前へプロ初安打を放つ。次打席でプロの洗礼となる初死球を受けるが、背番号24は怯まなかった。第3戦では川崎憲次郎から左中間フェンス直撃の勝ち越しのタイムリー二塁打を放つなど、チーム開幕3連勝の原動力に。東京ドームデビュー戦の7日広島戦では、山内泰幸からプロ初アーチを右翼席中段へ叩き込んだ。

 そんな前評判通りのスタートダッシュを見せた逸材に長嶋監督の反応も早かった。開幕7試合目の横浜戦で早くも五番起用し、「三番清原和博、四番松井秀喜、五番高橋由伸」の豪華クリーンアップが実現。当初は五番起用されるとプレッシャーからかなかなか結果が残せず、六番や七番に降格したが、やがて番長とゴジラとウルフの“MKT砲”は長嶋巨人の顔となる。プロの世界、結果を残せば周囲の反応も変わってくる。話題のルーキーの素顔に迫った同年発売の『ベースボールアルバムNo.122 高橋由伸』(ベースボール・マガジン社)では、異例のマイカー通勤許可の様子がリポートされている。球団には大卒新人でも1年は運転禁止のルールがあったが、長嶋監督は「実力があれば、そんなものは大した問題じゃありません」なんてあっさり特別待遇を認めた。そして、初めて愛車の黄色いボルボで東京ドームに出勤した5月2日ヤクルト戦、背番号24はプロ初の満塁弾を叩き込むのだ。その無類の勝負強さで、このルーキーイヤーに放った2本の満塁アーチは、新人最多記録として今も破られていない。

オールスターでイチロー[右]とツーショット


 打率3割前後をキープし、7月2日のヤクルト戦で先制の内野安打を放ち、81年の原辰徳が作った勝利打点の新人記録8に早くも並ぶと、7月6日には札幌シリーズの広島戦で、球団新人6人目の二ケタとなる10号に到達。46打点の高橋にチーム打点トップの座を奪われた松井は、「考えてみればさあ、年下と数字を争うのなんて初めてなんだよね。オレもベテランになったね。うれしいですよ」と新たなライバルの出現を歓迎した。オールスターファン投票では、新人史上最多の51万4351票を集め、松井に次いで外野手部門の2位で選出。球宴第1戦に全セの「一番右翼」で起用されると、2安打1打点としっかり結果を残し優秀選手賞を獲得。その巧みなバットコントロールには、全パのイチローも「脳ミソで考えているのではなく、体で反応している」と称賛してみせた。なお外野フェンス前からホームベースに向かっての送球で強肩を競うイベント「返球コンテスト」では、イチローと並んで最高得点を記録している。野球少年たちは、その一本足打法だけでなく、背番号24が外野守備で打球を追う際に負担にならないよう普通よりひと回り小さいグローブをつけていると聞けば、こぞって真似をしたがった。

止まらない勢い


 雑誌『ぴあ』1998年7月27日号の花火大会特集号で、堂々と表紙を飾ったゴールデンルーキーの勢いは止まらない。後半戦の巨人は、バルビーノ・ガルベスが7月31日の甲子園で判定に怒り審判へボールを投げつける騒動を起こし、長嶋監督は責任を取りけじめの坊主頭に。7月のチームは7勝12敗と大きく負け越し、首位横浜の背中が遠のくが、そんな暗いムードを吹き飛ばしたのはやはり高橋のバットだった。8月4日、広島のベテランサウスポー大野豊から東京ドームのバックスクリーンへ第12号逆転3ランを放ち、これが42歳の大野が現役引退を決断するきっかけとなる。なお、このシーンを東京ドームで見て由伸ファンになった小学生が、生まれて初めてのプロ野球観戦をしていた丸佳浩(現巨人)である。

 長嶋監督が「あんなルーキー、見たことがありませんよ」と脱帽した98年シーズン。“マシンガン打線”の横浜が38年ぶりの優勝を飾り、巨人は首位と6ゲーム差の3位に終わるも、高橋の1年目打撃成績は126試合、打率.300、19本塁打、75打点、OPS.852。打率3割はセ・リーグ新人では長嶋茂雄以来40年ぶりの快挙だった。32二塁打もミスターに次いで新人歴代2位である。新人王こそ14勝を挙げた六大学時代からのライバル川上憲伸(中日)に譲ったが、坪井智哉(阪神)や小林幹英(広島)らとともにリーグ特別表彰を受け、12捕殺を記録した守備では新人外野手初のゴールデングラブ賞にも輝いた。本拠地での勝負強さは群を抜き、打率.312、13本塁打で東京ドームMVPにも選出される。

松井が抱いた危機感


 そして、1年目を終えた背番号24はオフに自動車、お菓子、ファッションブランドとCM業界を席巻することになる。当時のスーパーアイドル広末涼子とも共演し、人気ピーク時にはダイハツから新型スモールキャブワゴン「アトレー7」の高橋由伸バージョンが発売されるほどだった(24番ユニフォーム風シートカバー&「Yoshinobu」ロゴ入りカーペットマット付きで170万円也)。

 今思えば、21世紀が近づいていた90年代後半、平成球界は新世紀の象徴となるニュースターを欲していた。そこに登場したのがまっさらなルーキー“1998年の高橋由伸”だった。彼は誰よりも新しく、なにより格好良かった。55番のゴジラ松井が伝統の継承者ならば、由伸は新時代の旗手だった。あの頃、1998年から99年にかけて、メディアを席巻した由伸バブルはイチローや松井をも凌ぐ勢いだった。プロ2年目の99年シーズン、背番号24は4月に打率.433、8本塁打、29打点で月間MVPを獲得。5月5日にはプロ初の四番に座り、三冠王を狙えるペースで打ちまくっていた時期、球団広報の香坂英典は試合後のロッカールームである光景を目撃する。

1年目の秋季キャンプ、宮崎で松井[左]とオフショット


「その試合でも由伸は打ちまくり、ヒーローインタビューを終え、ロッカーに戻ってきた。そんな由伸を横目に、その日も結果を残せなかった松井は試合後一人ロッカーで椅子に腰掛け、自分のスパイクを磨いていた。その表情が明らかにいつもの松井ではなかった。このままでは由伸に負ける……。大きな危機感を感じている松井がそこにいた。もちろん「そうなのか?」と松井には聞けないが、僕は強くそれを感じていた」(プロ野球現場広報は忙しかった。裏方が見たジャイアンツ黄金時代/香坂英典/ベースボール・マガジン社)

 当時の中堅・ベテランが多い長嶋巨人において、松井はずっとレギュラーで最年少だった。FA入団組の落合博満や清原和博も自分よりはるかに年上である。そこに一学年下の天才打者が入団してきたわけだ。当初は余裕を持って歓迎したが、やがてその後輩は恐ろしい勢いでスーパースターへの階段を駆け上がる。このままではオレは負ける――。その危機感は、バットマン松井をさらに上のレベルへと導くことになる。実際に松井が自身初の本塁打と打点の二冠を獲得したのは、高橋が入団した98年シーズンのことである。背番号24の出現以降、二岡智宏阿部慎之助ら大学球界のスター選手たちが逆指名で入団してきて巨人の主軸は一気に若返る。その中心にいたのは20代中盤の若きMTコンビ、松井秀喜と高橋由伸だった。

 1999年、巨人戦地上波テレビ中継の年間平均視聴率は20.3%を記録している。ジャイアンツのナイターが視聴率平均20%を超えたのはこの年が最後だ。いわば巨人戦が“国民的行事"といわれた、地上波中継時代最後のスーパースターが高橋由伸だったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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