鉄腕稲尾和久の入団
昨年2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は
稲尾和久さんが入団した1956年の話を抜粋します(何ヵ所か略しています)。
1956年から、いよいよ西鉄黄金時代の3年間が始まる。
つわものがそろった最強軍団に欠けたラストピースが絶対的エースだったが、それを埋めたのが、この年、別府緑丘高から入って来た稲尾和久だった。
当初は同期入団の左腕・
畑隆幸の評価のほうが高く、稲尾自身は「ダメなら打撃投手の扱いだった」と振り返る。まだ寒さが残る島原春季キャンプでも、来る日も来る日も打撃練習で投げ続け、1日の球数が600球近くになることもあった。
中西は新人・稲尾の印象について、「ゴボウのように細っこい田舎のお兄ちゃん。満足に変化球も投げられず、大丈夫かいなと思っていた」と言っていた。
のちに魔球と呼ばれたスライダーを操った稲尾だが、当時は真っすぐだけ。ただ、右打者なら内角は
シュート、外はスライダーと打者の近くでナチュラルに変化し、バットの芯を外すクセ球だ。打撃練習で凡打を繰り返した中西、
豊田泰光らが「面白いピッチャーがいます」と
三原脩監督に進言しての一軍入りだった。
稲尾は敗戦処理からスタートして途中から先発入り。そこから勝ちまくって21勝を挙げ、防御率1.06で最優秀防御率、さらに新人王にも輝いた。
中西にはマウンドでの若き鉄腕の雄姿とともに、ふだんのかわいい後輩としての姿が印象深く残っている。
「わしは遠征では仰木(彬)君、稲尾君と同部屋になることが多かった。部屋子じゃな。2人ともわしの財布をあてにして遊んだもんや。旅館の浴衣を着たまま一緒にラーメン屋に行ったりもしたよ。でも彼らのほうが大人だったな。わしのほうが子どもで、繊細なところもあった。わしは酒は付き合いだけだが、あいつらは夜の帝王だしね。わしが寝てから帰ってくることのほうが多かったよ」
稲尾の名誉のために付記するなら、中西との同室はプロ2年目からだった。同年6月10日には、稲尾青年もめでたく20歳となっている。
中西の相部屋となると、必ずついてくるのが、伝説の素振りだ。
「わしは素振りをしないと眠れないので、彼らが寝ていても、かまわず振った。夏は素っ裸で素振りをしたこともある。当時はクーラーもないし、汗だくじゃ。服着てバットなんか振ってられんじゃろ」
宿舎のガラス窓が揺れ、ガタガタと大きな音を立てた強烈な素振りはチーム内でも話題(苦情の的)となり、三原監督がこっそりのぞきに行ったこともあった。
「寝るのが趣味」とも言っていた稲尾は、あくまでおとなしく部屋にいるときだが、中西が顔の上でビュンビュンとバットを振っていてもいつも高いびき。部屋でにぎやかに麻雀をしているときも平気で寝ていた。
あるとき、麻雀をしていた中西が、寝ている稲尾の頭をピシャリとたたいて起こしたことがある。
少し前に中西のタイムリーエラーで負けたことがあったのだが、稲尾が寝言で「サードに打たすな!」と言ったのだ。
「たまたまやないか! いつもしっかり守っとるやろ!」
もちろん、本気で怒ったわけではなく、そのあとみんなで大笑いになった。当時、20代前半がチームの主力となっていた。夜の宿舎で修学旅行のように大騒ぎし、相撲を取ったり、肩を組んで歌ったりもした。
西鉄黄金時代はまた、野武士たちの青春時代でもある。