怪童の結婚秘話
昨年2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は1956年の話を抜粋します(一部略)。
1956年1月7日、中西は前年暮れに婚約していた
三原脩監督の娘、敏子さんと結婚式を挙げた。青春映画『青い山脈』の出演で注目を集めた女優・杉葉子さんに似ていると評判だった敏子さんと、荒々しき西鉄の猛者・中西のカップルは「美女と野獣」とも言われ、世の男をうらやましがらせた。
中西は「後援会の人が話を進めただけ。三原さんの娘やったから、いろいろ憶測するかもしれんが、わしからは一度も嫁にくれとは言うとらんのだけどな」と言っていた。
敏子夫人も「兄妹みたいな感じだったので、特に意識はしていませんでした。2人でそういう話もしていなかったんですけど。父から言われて『ああ、そうなのか』くらいでした。気を使わなくていいのかなと」と言うが、
あらためて長女の則子さんに聞くと、「周りがやきもきして、話を進めたと聞いています」
どうやら互いにこの人と思いながらも、なかなか前に進めなかったようだ。
それでも前述(※書籍中)の福岡、大阪からの電話に加え、「オールスターの賞品だけど、わしはいらんから」と真珠のイヤリングをぶっきらぼうに敏子夫人にプレゼントするなど、照れ屋の中西なりの行動には出ていた。
「一度、運動靴を買ってやるぞ、と言われ、銀座の店に一緒に行ったこともあります。結局、ハイヒールを買ってもらって、ラッキーって(笑)」と敏子夫人。これはもうデートとしか言いようがないだろう。
三原監督は結婚に反対したわけではないが、自分から強く勧めたわけでもない。ただ、結婚直後、球場からタクシーで帰るとき、同乗した中西にこんこんと説いたことがある。
「虎の威を借るな。人間関係は上から押しつけてはいけない。誠心誠意尽くすことが大切だとおっしゃった。何度も言われたのは、うぬぼれてはいかん、楽して金をもうけようと思ってはいかん。人間はいつも修羅場にいる気持ちを忘れるな、だったね。たとえ裏切られても、決して泣き言を言うな、とも言われた」
スター選手であり、監督の娘婿にもなった中西が周囲からどのような目で見られるか。ちやほやされるだろうが、ねたみで見る人、つけこんで甘い汁を吸おうという人も少なくないはずだ。ぶれない芯をしっかり持ってほしいということだろう。
かわいい一人娘を嫁がせるからだけではなく、三原監督の中に、中西を指導者としても自身の後継者にしたいという思いが強くあったに違いない。
「中西は義理の親子だから三原さんにかわいがられたとかというやつもおった。わしはあの人の娘と結婚はしたけど、別にかわいがられてはいないよ。こっちも、もう結果を出していた時期だったしな。最後まで距離感はずっと同じだったね。あの人のことをわしなんかが、あれこれ言えんよ。大監督や」
取材の際、三原監督について「三原さん」「オヤジさん」「オヤジ」といろいろ呼んでいたが、最初のころは取材のあとで原稿を見せると、「わしがオヤジと言うわけにはいかんやろ。三原さんにしてくれ」と言われたことがあった。