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【大学野球】明大・戸塚俊美新監督の理想の監督像は「島岡さんです」 伝統の「人間力野球」を継承

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たたき上げの象徴


明大・戸塚新監督は昨年11月5日に就任が発表された。1964年生まれ。明大中野高、明大、神戸製鋼でプレーし、社会人での監督経験もある。2001年からは19年、学生野球、社会人野球の審判員を務め、20年からは5年間、明大助監督を歴任した[写真=BBM]


 明大が1月8日、府中市内の活動拠点である内海・島岡ボールパークで2025年の練習をスタートさせた。今春から母校を指揮する明大・戸塚俊美監督は「チームの目標は4冠(春、秋リーグ戦、全日本大学選手権、明治神宮大会)。まずはこの春、天皇杯を奪還し、6月の選手権で日本一を獲得したい」と意気込んだ。

 2020年から5年間、前任の田中武宏監督を助監督として支えており、チーム状況はすべて掌握。スムーズに新体制へと移行できた。

 理想の監督像を問われると「島岡さんです」と即答した。かつて明大を計37年率いた島岡吉郎元監督。「御大(おんたい)」として親しまれた名物指揮官だ。「島岡さんから教わった最後の世代。つないでいきたい思いがあります」と、伝統である「人間力野球」の継承を宣言。明大は野球以前の寮生活、学校生活を重要視。島岡寮では10年ぶりに復帰した松岡功祐コーチとともに、学生と寝食をともにして「指導、教育をしていきたい」と語る。

 なぜ、島岡イズムを継いでいくのか。戸塚監督は自身が歩んだ野球人生と重ね合わせる。

「明大中野高校出身なんですが、(付属高校出身は)、相手にされなかったんです(苦笑)。明治高校出身者はおらず、明大中野の先輩は2学年上にいたぐらい。入学から1年半、練習でボールを触ったこともありませんでした」

 長い下積み生活である。レギュラー練習が終わり、グラウンドが空くと、ひたすらファウルグラウンドでサイドノックを受けた。懸命に、泥だらけになって、白球を追う姿を見ている人がいた。島岡監督だった。

「2年夏。突然、島岡監督から『入れ!!』と、オープン戦で先発起用されたんです。ちょうど三塁が固まっていない状況で、この機会を何とかものにすることができました。アピールポイント? 守備です。4年間で打撃練習をした記憶がないぐらいです(苦笑)」

 下から這い上がってきた、たたき上げの象徴だ。2年秋からレギュラーとなり、4年時は主将を務めた。86年春の立大1回戦では史上6人目のサイクル安打を記録。泥臭さを前面に出す、島岡御大好みの、努力の人だった。

「一生懸命、やっている学生にはチャンスをくれた。良い意味で、競争もできる。私もそういうチーム、監督でありたいと思います」

神宮で19年ジャッジした経験


 明大卒業後は社会人野球・神戸製鋼で選手6年(主将3年)、コーチ2年、監督4年を経験した。ユニフォームを脱ぎ、東京へ戻り、社業に専念するタイミングで2001年、明大の審判員だった吉川芳登氏(明治大学野球部OB会・駿台倶楽部会長)から声がかかり、東京六大学野球連盟の審判員となった。

 神宮で19年ジャッジし、この間、社会人野球のほか、春、夏の甲子園大会でも15年にわたり審判委員を務めた。「全試合、緊張します。アンパイアは何かをすると騒がれる。何もなく、終える。『選手に名前を覚えられるような審判員はダメだ』と言われたことがあります」。17年春のセンバツ決勝(大阪桐蔭高-履正社高)で球審を任され、大学野球では2010年秋、早大と慶大による優勝決定戦で二塁塁審を務めたのも思い出として残っている。

 長く、アンパイア目線で野球を見てきたことは、現場指導でも大いに生かされているという。選手と一緒に試合をつくり上げていく、審判員へのリスペクトはもちろんのことであり、技術的には「全力疾走。どんな状況でも全力で駆け抜ける」ことを徹底させている。

 2025年は東京六大学野球連盟創設100年だ。

「長い歴史の中で100年を迎えるときに、明治大学の監督であるのは感謝の気持ちです」

 戸塚監督は5年間の明大助監督時代「愛のあるノック」で学生から全幅の信頼を得ていた。「守りの野球。粘りをテーマにしていきます。『粘り』を出すには、普段の練習から、気持ちを前面に出していくことが大事になる。それが、試合終盤の粘りにつながります」。令和の時代に合わせ、24時間指導で、学生野球の基礎基本を徹底的にたたき込むつもりだ。

文=岡本朋祐

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