情熱のすべてを懸ける決意
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は再び1971年
ヤクルトコーチ時代の話です(一部略)。
西鉄ライオンズ退団後、評論家となっていた中西太に、1970年秋、長崎県出身で、以前からの知り合いだったヤクルトアトムズの松園尚巳オーナーから連絡があった。
「チームをつくり直したいので、三原さんと一緒に手伝ってくれませんか」というものだ。
三原脩は体調不良もあって近鉄の監督を辞めたばかりだった。
前身の国鉄から1965年途中にサンケイ、さらに1970年からヤクルトに経営が変わっていた。松園オーナーは
巨人と対抗できる球団にと張り切ったが、そう簡単ではない。低迷が続き、同年は8月の16連敗もあって勝率.268の最下位に終わっていた。
三原新監督の下、中西はヘッドコーチに就任。新体制の球団はコーチングスタッフだけでなく、組織としても脆弱で、「いいスカウトがいないですか」と言われ、西鉄で一緒にやった先輩外野手の
塚本悦郎を紹介している。
直後のドラフト会議でヤクルトは電電北海道の好打の外野手・若松勉を3位で指名。当時のヤクルトは巨人のように誰もが入りたがるチームではなかった。ダメ元の指名も多く、指名後のスカウトの交渉もまた重要になる。
若松は塚本が初仕事で担当した選手だったが、「入団を渋っているから、一緒に来て話をしてくれないか」と言われ、ともに北海道に向かった。
結果的にこの北海道行きが、中西にとっても転機となる。
「そのときは若松君には会っていないんだよ。家に行くと、彼はプロなんか行かないと逃げてしまっていた。仕方がないから、お父さんと、高校時代の監督さんに話をしたんだ」
若松は当時をこう振り返る。
「中西さんがいらしているというのはちらりと聞きましたが、スカウトの方に会ってしまったら説得されちゃうかもと思い、逃げました(笑)。もう結婚もしていたし、会社も反対していましたしね。体が小さかったし、プロになりたいなんてまったく考えてもいませんでした。当時、北海道からプロに行った人はほとんどいないし、行ってもすぐ帰ってきて、電電北海道のコーチをされていた方もいましたからね」
中西は姿を見せない若松に、自身の西鉄入りのときの不安な気持ちを重ねた。父親たちに話したのも当時の話だった。
「私は高松一高を出るとき、早稲田が決まっていたが、家が大貧乏だったから、三原さんの誘いもあって思い切って西鉄に入った。今は自信がないようだが、その謙虚さは素晴らしいことだ。いざ入ったら、そういう自分にうぬぼれない人間こそ、必ず頑張れる、死に物狂いになれる。私も決して上背があったわけじゃないが、プロは体の大きさで決まるわけではありません、とね」
入団は難しいかなと思っていたが、東京に戻って何日かしたら「よろしくお願いします」と連絡があった。
「中西さんが、体が小さくても大丈夫だとおっしゃっていたのは聞きました。でも、やっぱり自分には無理だろうと思ったのですが、ずっとお世話になっていた方やチームの後援会の方々が、お前ならできると応援してくれたこともありました。自信なんかまったくなかったですが、とりあえずやってみようかと」(若松)
中西のコーチの仕事はそこからだ。もちろん、西鉄時代も若手の指導はしていたが、専任コーチはこれが初めて。当然、戸惑いはあった。
「三原監督は、選手をつくることは、すべて任せると言ってくれたが、任せるといっても、オヤジがいるのに、そんなに勝手にできるわけないよ」
しかし、だからこそ「とにかく自分のできることを一生懸命やろうと思い、若い選手たちに一から基本を教えた」と振り返る。
「当時のヤクルトは小粒ではあったが、若松君をはじめ素直な選手ばかりだったのもよかったね」
彼らに情熱のすべてを懸ける決意をした。