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【高校野球】相模原高・佐相眞澄前監督が死去 最後まで衰えなかった現場指導への意欲

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「公立校の雄」として存在感


相模原高・佐相前監督は昨年12月22日、同校グラウンドで、関係者を前に辞任の報告をしていた[写真=BBM]


 相模原高のグラウンドは澄み切った青空が広がっていた。昨年12月22日、午前11時に合わせて、教え子、保護者、指導者など約200人が集結。マウンド付近にいた佐相眞澄氏は監督退任のあいさつを終えると、一人ひとりと丁寧に言葉を交わした。46年の指導者生活。思い出話は尽きない。これが、最後の別れになるとは、誰も想像していなかった。

 昨年12月まで相模原高を指揮した佐相眞澄前監督が1月24日の夕方、病気のため死去した。66歳だった。

 法政二高、日体大を経て、卒業後は神奈川の保健体育科の教員として新町中、大沢中(92年の全日本少年3位)、東林中(97年の全中8強、98年の全中3位、2001年のKボール全国優勝、世界大会3位)で実績を残した。

 05年からは高校野球界へ。川崎北高では07年秋に県4強に進出すると、08年のセンバツ21世紀枠の県候補校に推薦。08年夏の北神奈川大会8強、09年夏も5回戦に進出した。12年春に相模原高へ異動すると、14年秋に県4強、15年春には県大会準優勝で関東大会出場。18年夏の北神奈川大会8強、そして、19年夏の準々決勝では4年連続甲子園出場をかけた横浜高に逆転勝ちし、同校の夏の選手権最高成績である4強(3位)へと導いた。

「打倒・私学」「甲子園一勝」を目標に、卓越した打撃理論を前面に「打ち勝つ野球」を目指した。強豪私学がひしめく激戦区・神奈川で「公立校の雄」として存在感を示してきた。

 佐相監督は60歳以降も再任用として指導を続け、65歳で定年となった一昨年4月からは外部指導者として指揮。地域から県相(けんそう)として親しまれる相模原高への愛着は、特別なものがあった。

理想としてきたチーム像


 ところが、昨年3月末、体調に異変が起きた。春先以降、体重が落ち、6月に病院で検査を受けると、ステージ4のがんの宣告を受けた。本格的な治療をスタートさせたが、抗がん剤治療が最もきつかったという。体調が良いときは、グラウンドで指導。夏の神奈川大会はベンチで指揮したが、秋の県大会は試合会場に行くことができなかった。ここで、辞任を決断した。

 12月22日。佐相監督は現役の保護者向けに退任を報告すると、グラウンドへ移動。歩くのもつらそうだったが、不思議と教え子の前に立つと、元気が出るものである。新町中、大沢中、東林中、川崎北高、相模原高の卒業生、卒業生の保護者の前であいさつ。かつて、教えた生徒はともかく、元・保護者のほうが熱心だった。親が指導者を信頼。これこそが、佐相監督が理想としてきたチーム像だった。

「保護者は大切な存在です。保護者と顧問が密になっていれば、生徒は間違いなくついてくる。グラウンド内の設備拡充のほか、さまざまな環境整備をしていただきました。こうしたバックアップが背景にあって、力をつけてきたチーム。スカウティングした子はいません。タイミング良く、力が合わさったときに、県上位へと進出することができました」

 中学24年、高校22年に及ぶ指導者生活の一つの区切りを迎えた。ただ、これで終わりではなかった。

「まだ66歳なので、長生きして、野球界に貢献したいと思います」と、意気込んでいた。そして、こう続けた。「しっかり治して、野球界に戻ってきたい。野球の底辺拡充をしたい思いがあります。また、戻る。それしかないです。それがあるから、頑張れる。野球から力をもらっています」。今年2月には県外の中体連から指導依頼があり、復帰へのモチベーションとしてきたが、病には勝てなかった。

 佐相氏が死去した1月24日。選抜選考委員会で横浜清陵高が21世紀枠でのセンバツ初出場を決めた。神奈川の県立校が甲子園に出場するのは、1954年春の湘南高以来、71年ぶり。佐相氏は「タイミングが合えばまた、県相で指導したい」と、県立校で甲子園出場を目指す夢を語っていたが……。最後まで、現場指導への意欲が衰えることはなかった。

 昨年12月22日の監督辞任の際には多くの中学、高校の監督が挨拶に訪れた。人望が厚かった。若手指導者への面倒見もよく、自然と人が集まる温厚な人柄だった。佐相氏の遺志を、後輩たちが継いでいくことなる。合掌。

文=岡本朋祐

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