城北高では主将

ノックバットを手にする大西新人監督。持ち味の「気持ち」で、チームの士気を上げている[写真=BBM]
早大は沖縄・浦添市内で3月5日から19日まで春季キャンプを張っている。学生コーチとして全体練習を動かしているのは大西創志新人監督(4年・城北高)だ。
「良い練習ができています。早稲田は昨年、春秋連覇を遂げましたが、今年も同じことをしていたら勝てない。主将・印出さん(
印出太一、三菱重工East)、三番・吉納さん(吉納翼、
楽天)、守りのカナメだった山縣さん(山縣秀、
日本ハム)が卒業し、今年のチームは主将・小澤(
小澤周平、4年・健大高崎高)を中心に走塁に力を入れ、死に物狂いで取り組んでいます。守備を固めて、ロースコアで勝ち切る。声と全力疾走の徹底から、雰囲気づくりをしています。沖縄でのオープン戦では、投手の仕上がりも早く、攻撃陣も練習の成果が出てきている。スキをなくし、スキを突く野球を体現したいです」
城北高では主将を務めた。3年夏は東東京大会初戦(2回戦)で海城高と対戦(五番・右翼)。東大のサブマリンエース・渡辺向輝から適時打を放ち、初戦突破に貢献した。上位進出を狙っていたものの、4回戦で敗退。この悔しさが大学でも野球を続ける原動力となったという。指定校推薦で、早大に進学した。
中学2年時に腰を痛めたため、「回旋が右よりも左のほうが、負担が少ない」と、左打者に転向した。「つくった左です」。努力と根性で技術を磨いてきた。早大では外野手としてベンチ入りを目指し、猛練習に励んだが、現実は厳しかった。2年秋のフレッシュリーグ(2年生以下でチーム編成)では、内野の控えでベンチ入り(背番号35)。出場機会はなかったが、神宮で貴重な経験を積んだ。早大は2年秋のリーグ戦を終えるまでに、学生コーチを選出しなければならない。学年ミーティングで、何度も膝を突き合わせて話し合うのが慣例である。信用、信頼できる人間でしか、このポストは任せられないからだ。
「自分自身、体の限界が近づいていたのは確かです。野球ができなくなったときに、何ができるのか、チームに貢献できるのかを考えていました。2年秋に外野から内野に転向したんですが、野球が中心に回るのは内野です。経験しておけば、後に役立つと思いました。同期からも『お前にやってほしい』と言われました。小澤、尾瀬(尾瀬雄大、4年・帝京高)とは、下級生時代から話していたんです。下手くそなりに、野球を真面目に取り組んでいた姿勢を認めてくれていたのかもしれません」
徳武氏からの教え
2年生の11月、裏方に転身した。昨春のリーグ戦はスタンドで観戦。相手ベンチサイドの内野席中段が定位置だった。一緒に腰かけていたのは、早大OB・
徳武定祐氏。徳武氏は1960年秋、早慶6連戦で逆転優勝時の主将だ。
早大卒業後はプロ3球団で計10年プレーした。引退後は
中日や
ロッテのコーチ、ヘッドコーチ、監督代行らを歴任。プロのユニフォームを脱いだ後は99年、早大で同級生だった野村徹監督から打撃コーチの打診を受けた。以来、應武篤良監督、岡村猛監督の下、14年まで後輩たちを指導してきた。
小宮山悟監督が就任した19年に復帰し、20年まで後輩たちのために汗を流した。指導現場から離れた後も、稲門倶楽部(早稲田大学野球部OB会)の一員として、後輩たちの面倒を見ていた。
「昨春は10試合、徳武さんと観戦しました。早稲田大学野球部の歴史を語る上で、外せない先輩。『来年、あそこで立つイメージを持って準備しろ』と、細部まで指導をいただきました。最後は気持ちだぞ、と。守りであれば、一球を相手に届ける。攻撃は一球に集中して打つ。早稲田が大事にしている一球入魂の精神を、徳武さんの言葉から多くを学びました」
昨秋、神宮球場に徳武氏の姿はなかった。体調を崩し、9年ぶりに春秋連覇の報告を受けた2日後に他界した。86歳だった。
「秋も勉強させていただくつもりでした。身近な方が亡くなるのは初めて味わうことで、相当な喪失感がありました。今年入学する1年生は、徳武さんのことを知りません。私が語るのはおこがましいことは承知の上で、脈々と継がれてきた早稲田大学野球部の歴史、一球入魂を伝えていきたいと思います。徳武さんは早稲田のことを誰よりも愛し、勝つことを強く願われていた方です。志を受け継ぎ、天国から応援してくださっていると思うので、優勝という形で報告をしたいと思います」
左から放たれるリズムの良い大西のシートノックで、練習のムードは一気に上がる。早稲田の野球を最も熟知する最強の裏方が今春、身を粉にして、リーグ3連覇へと導いていく。
文=岡本朋祐