「ライバルはミック・ジャガー」(?)

さまざまなアクションでファンを楽しませたアニマル
近年は勝ちゲームの最後に助っ人の投手がマウンドに立つことは珍しくない。一般的と言ってもいいかもしれない。ただ、1980年代は助っ人では打者のほうが圧倒的に多く、投手は貴重な存在とも言えた。昭和も終わりに近づいていたころ、別次元のパフォーマンスで沸かせた“助っ投”がいた。阪急(現在の
オリックス)の
アニマル・レスリー。この「アニマル」は登録名で、メジャーのデビュー戦で送球が遅れた先輩を怒鳴って「怒り狂った猛獣(アニマル)みたいだ」と言われてニックネームになったものだという。本名はブラッド・レスリーといった。
1986年に入団。身長200センチ、体重100キロという公称は先輩で84年の三冠王でもある
ブーマー・ウェルズと同じだ。27歳、年俸は3000万円に満たなかったという。マウンドでは打者を抑えるたびに雄叫び、試合を締めくくれば捕手をボコボコ。相撲ファンで、相撲の手刀を真似たおとなしめの(?)ものもあったが、基本的にパフォーマンスは過激だった。
当然、話題を集める。これは見せ場が続いたからでもあった。4月1勝4セーブ、5月4セーブ、6月4セーブと圧倒的な安定感で、初めて敗戦投手となったのが8月、最初の被本塁打が10月。この安定感によって、パフォーマンスを繰り広げる舞台が続いたわけだ。ボコボコにされるのは捕手の
藤田浩雅だけでなく、その矛先は
上田利治監督にも向かった。アニマルに胸をド突かれた上田監督は「1カ月くらい痛みが取れない。肋骨にヒビが入ったかと思った」と苦笑。その後は警戒して、勝ってもアニマルが落ち着くまでは近づかないようにしていたという。
だが、実際は登板を前に「震えるほど気が弱かった」という。過激なパフォーマンスは、自らを奮い立たせる儀式のようなものだったのだろう。最終的に86年は5勝19セーブ。『チャンピオン・アニマル』という歌で歌手デビューも果たして、「ライバルはミック・ジャガー」と語っていた。翌87年オフに現役を引退、わずか2年のプレーだったが、その後も日本に残って、「亜仁丸レスリー」の芸名でタレントとしても活躍した。
写真=BBM