散発“ピストル打線”の四番打者

78年から80年まで近鉄でプレーしたアーノルド
2リーグ制とともにプロ野球に参加した近鉄が初のリーグ優勝を果たしたのは1979年。当時の12球団では12番目、つまり最後の達成だった。立役者は
ヤクルトから移籍してきて1年目の
チャーリー・マニエル。「赤鬼」の異名を取った助っ人だが、死球禍で顎を骨折して流血、離脱するも、フェースギアを装着して復帰したときの迫力は「赤鬼」をもしのぐ迫力で、MVPにも選ばれている。ただ、このときの近鉄にいた助っ人はマニエルだけではない。迫力も打棒もマニエルの陰に隠れていたが、渋いプレーで近鉄を支えていたのが
クリス・アーノルドだ。
身長180センチ、体重79キロと、助っ人としては小柄といえよう。マニエルがヤクルト初のリーグ優勝、日本一を支えた78年に近鉄へ入団。つまり、近鉄ではマニエルの先輩になる。マニエルはヤクルトの
広岡達朗監督から「守れない、走れない選手はいらない」と放出されたが、アーノルドは近鉄の二塁を任され、打順では主に五番を務めた。当時のパ・リーグは前後期制で、この78年も黄金時代に合った阪急(現在の
オリックス)と優勝を争っている。
西本幸雄監督の就任から着実に力をつけてきていた近鉄で、アーノルドは貴重な戦力だった。ちなみに78年は同じく内野手の
ジョー・リスもいたが、リスはオープン戦で6本塁打、首位打者となる活躍も、故障で開幕から出遅れて、そのオフに退団している。
マニエルの加入で、アーノルドは下位打線にいることが多くなる。ただ、長距離砲の加入は、中距離ヒッターのアーノルドにとってはプラスだったかもしれない。8月4日の阪急戦(西宮)ではイニング2二塁打でプロ野球の頂点に並ぶなど真価を発揮。最後は及ばなかったものの、
広島との日本シリーズまで活躍を続けた。
第7戦(大阪)では、9回裏、広島の
江夏豊が力投でチームを日本一に導いた、いわゆる“江夏の21球”で四球を選んでいる。翌80年は91試合で11本塁打と3年連続2ケタ本塁打を達成したものの、規定打席に届かず、持ち味の二塁打が8本と激減。近鉄はリーグ連覇を果たしたが、アーノルドはオフに退団となった。
写真=BBM