どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 ノビノビとプレーした“ハマの新星”

大洋1年目の谷繁
「
山下大輔氏の引退で“空席”になっている『背番号1』のプレゼントまでほのめかせるなど、指名直後からすでに“ハマの新星”誕生ムードでいっぱいだ」
昭和最後のドラフト会議の様子を報じる「週刊ベースボール」1988年12月12日号では、大洋ホエールズが単独1位指名に成功した
谷繁元信が巻頭カラーページのトップを飾っている。当時、バブル好景気の真っ只中で表紙裏の広告は、栄養ドリンクのリゲインで「24時間、戦エマスカ。」だ。夏の県大会で5試合連発アーチを放った江の川高の超高校級捕手を巡り、水面下では各球団の駆け引きが繰り広げられていた。週べ同号の記者覆面座談会では、「(谷繁)本人は『
広島が第一志望』と早くからいっていたが、野球部関係者の話は『あれは煙幕。本人は最初から
巨人志望だった』そうだ」なんて発言も残されている。

1988年のドラフトで大洋から1位指名され入団[前列左から3人目が谷繁]
大洋は明るい性格と、屈託のない笑顔が魅力の高校通算42本塁打のスター候補生に「背番号1」を与え、
古葉竹識監督も「2年、3年先を見据えてゆっくり育てたい」とドラ1捕手の谷繁を大事に、そしてノビノビとプレーさせた。初めての沖縄・宜野湾キャンプでは怪我しないように組まれた練習メニューを難なくこなし、空き時間でパチンコを楽しむ。高校の卒業式からチームに再合流してすぐ1989年3月4日の巨人とのオープン戦に代打出場すると、38度の高熱に加えて、緊張から打席で震えるほどだったが、なんと
斎藤雅樹から初本塁打を放ってみせた。
新品のキャッチャーミットをくれたりとなにかと可愛がってくれた先輩捕手の
若菜嘉晴が、開幕直前に
日本ハムへ移籍。要は球団側がベテラン捕手を放出して、ドラ1捕手の出場機会を増やそうとしたのである。これにより、
福嶋久晃バッテリーコーチのもと体力作りに励んでいた谷繁に、早くもチャンスが巡ってくる。
89年シーズンの開幕一軍入りを果たすと、4月11日の広島戦に代打起用され、プロ初打席・初安打の順調なスタート。5月18日の
ヤクルト戦で初スタメンを飾り、5月27日の同カードでは
尾花高夫からプロ初アーチも放った。この頃の谷繁は、先輩選手たちより1時間半早く球場入りして特打ちを課せられ、遠征先では午前中から室内練習場でバットを振る。チームの強化指定選手である。背番号1は、大洋の未来そのものだった。それでもペナント序盤は途中出場やベンチスタートが多く、下位に低迷する自チームの現状に、18歳は臆することなく週べのインタビューでこう答えている。
「悔しいですけどねえ。チームのことだから、しょうがないです。自分ではチームの調子はあまり考えずに、割り切ってやっていくようにしています。負ける時は負けるんですから。しょうがないですよ。勝つ時は勝つんですよ」(週刊ベースボール1989年7月3日号)
同世代の仲間と愉快に過ごして

1年目から一軍でスタメン出場を果たした
前半戦だけで18試合のスタメンマスクを被ったが、もちろん高校を卒業したばかりの捕手を軽く見る先輩投手もいた。ストレートのサインを出しても変化球を投げてきて、驚き後ろに逸らすと「あのくらい捕れよ」と𠮟られる。当時の球界はまだ理不尽な先輩からのかわいがりも当たり前だった。それでも、横須賀市長浦の清風寮に帰れば同世代の仲間たちがいた。
「1年早く
盛田幸妃さん、
野村弘樹さんが入っていて、1年後には佐々木(主浩)さんが加わるんですけど、同級生が多かった。僕が指名された88年のドラフトでは高校生が
石井琢朗など6、7人。お互いの部屋を行き来したりしていました。佐々木さんが入ってきた後にはトランプに興じたり、音楽をガンガンに鳴らすなど、みんなで愉快に過ごしていました。いま振り返ると、高校の修学旅行の延長のようなノリでしたね」(連載「仮面の告白」/ベースボールマガジン)
バブル好景気に日本列島が浮かれていた時代、谷繁は球団から車所持を禁止されていたにもかかわらず、中古の銀のフェアレディZをこっそり買って寮の近くの駐車場を借りて停めた。遊びたい盛りのやんちゃな若手選手たちの門限破りは当たり前で、タクシーで寮から横浜スタジアムへ通勤したこともあった。子どもの頃からの大好物、地元・成羽川の養殖うなぎの送付を広島の実家に頼み、夏バテ対策。大洋は最下位でシーズンを折り返すも、古葉監督は後半戦が始まると、ベテラン捕手の
市川和正ではなく、谷繁を正捕手として連日先発で起用した。8月3日の
阪神戦では、キーオから思い出の甲子園で第2号アーチ。チームは敗戦も、「ここでの本塁打は格別」と手応えを口にするルーキーキャッチャーの夏。しかし、8月7日現在で88打数23三振とまだまだ打撃が粗く、打率もやがて1割台まで下がってしまう。しかし古葉監督は、将来への投資といわんばかりに谷繁をスタメンで使い続けた。
結局、谷繁のプロ1年目は80試合で打率.175、3本塁打、10打点。盗塁阻止率.360は高卒新人捕手としては合格点とも思えるが、チームは最下位に沈み、古葉監督はこの年限りで退任。優勝チームの巨人に5勝21敗と大きく負け越し、横浜スタジアムで
藤田元司監督の胴上げを目の当たりにする屈辱も味わった。それでも谷繁元信の歴代最多通算3021試合出場も、27年連続本塁打のNPB記録も、すべてはこの1年から始まったのである。
「僕が入団した1989年は古葉監督の最後の年で、巨人にまるで歯が立ちませんでした。“横浜大洋銀行”と言われ、悔しい思いもありましたが、自分のレベルを上げるのが精いっぱい。この年、80試合に出場させてもらいましたが、自分の力で出たとは思っていません。右も左も分からないプロの世界で、いろいろなことを経験させてもらった1年間でした」(横浜大洋ホエールズ マリンブルーの記憶1978年~1992年/ベースボール・マガジン社)
この後しばらく、谷繁は伸び悩み、初めて100試合以上に出場したのはプロ5年目のことである。そして1998年、横浜ベイスターズに38年ぶりの日本一をもたらした主力選手の多くは、谷繁の若手時代に清風寮のカレーライスをともに頬張ったあのメンバーだった――。
文=中溝康隆 写真=BBM