一軍昇格後、2本塁打

5月10日のヤクルト戦で一発を放った浅野
これ以上ズルズル負けるわけにはいかない。
巨人が5月16日の
中日戦(東京ドーム)で逆転勝利を飾り、連敗を4でストップ。負ければ借金生活の危機で、貯金1にした。同点の8回にセットアッパー・
大勢が
上林誠知に勝ち越しソロを浴びて重苦しい雰囲気が漂ったが、直後に
吉川尚輝が右翼のポール際へ1号3ランを放って逆転。吉川は試合後のお立ち台で、「連敗中でチームとしてとても苦しい状況でしたし、僕もなかなかいい場面で打てないことがあったので……」と感極まって言葉に詰まった。
岡本和真が故障で長期離脱し、四番に座ることもあった。重圧を背負っていただけに苦しかっただろう。8回の好機は代打で出場した
中山礼都の右中間二塁打が逆転劇を呼び込んだように、今後も全員野球で白星を積み重ねるしかない。その中で、覚醒が期待されるのが高卒3年目の
浅野翔吾だ。
今年は打撃の状態が上向かず、開幕からファーム暮らし。三軍降格も味わった。一軍で出場経験のある選手が故障以外に三軍でプレーするのは珍しいが、はい上がるしかない。
駒田徳広三軍監督から助言を受けたことが転機になったのだろう。すり足から左足を上げる打撃フォームに変え、構えの際にバットを寝かせてリ
ラックスした姿勢にしたことでスムーズにバットが出るようになった。岡本が故障で登録抹消の緊急事態で5月7日に一軍昇格すると、「八番・中堅」でスタメン出場した10日のヤクルト戦(神宮)で8回に
小澤怜史のフォークをバックスクリーン左に叩き込む1号ソロ。11日の同戦でも8回に
吉村貢司郎の147キロ直球を左翼席へ2試合連続アーチを放った。
打撃スタイルの変化で進化
浅野が打撃で方向性に迷った心境を、駒田三軍監督は理解できたのだろう。現役時代に巨人、横浜(現
DeNA)で通算2006安打をマークし、広角に安打を打つ打撃技術に定評があったが、決して順風満帆な道のりだったわけではない。高卒3年目の1983年にプロ野球史上初となる初打席で満塁アーチを放ち、身長191センチと恵まれた体格だったことから長距離砲として期待された。翌84年に当時の
王貞治監督(現
ソフトバンク球団会長)から一本足打法の習得を勧められたが、なかなか結果が出ずに苦しんだ。一軍で常時出場できるようになったのは、アベレージヒッターとして活路を見出した87年だった。
駒田三軍監督は、巨人でチームメートだった
吉村禎章氏(現巨人編成本部長)と14年に週刊ベースボールの企画で対談した際、打撃スタイルの変化について以下のように振り返っている。

巨人での現役時代の駒田三軍監督
「発想の転換が大きかったと思います。かつて二軍監督も務められた岩本尭さんが、僕が伸び悩んでいた時期にフロントにいて、査定担当をされていたんです。フロントの方ってあまり現場に口を出さないものですが、一つだけ言ってくださったことがあるんです。『野球場って何でセンターが広いか、分かるかい?』って。センターに100メートルぐらい飛ばすのは簡単なんです。下手な人でも飛ばすことはできる。だから距離を長く取っているんですが、ではなぜ両翼は短いかっていうと、ファールにならないように飛ばすのにはコツがいるからなんですね。飛距離は飛んでも、切れていってしまうわけです。だから岩本さんは『君のようにリストも長い選手は、無理に難しい方向に打つんじゃなくて、広いところに向かって素直に打てばいいじゃないか』と」
「よく、守備が下手な人に小さなグラブで練習させるってありますが、それとは逆に大きなグラブを使って、成功体験で伸ばすという逆転の発想です。それが僕にはしっくりきたんですよ。バットにしても、別に自分では40本塁打も打とうと思ってはいないから、短いのを使えばいいやって思うようになったら結果が出るようになりました」
浅野も自身の打撃スタイルで思い悩んだ時間は決して無駄ではない。他球団の首脳陣は「高卒3年目であれだけバットが振れるのは、モノが違いますよ」と評価する。広角に強い打球を打てる中距離打者として、覚醒できるか。
写真=BBM