どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 決して折れない心
「朝から晩まで野球漬けで、夜、目を閉じたら体感的には3秒で朝が来る。朝が来たらすごく憂鬱なんですよね。『また1日が始まる』って。考えただけでゾッとします。でも、それがなかったら今の自分はないですからね」(週刊ベースボール2016年5月23日号)
体感睡眠時間わずか3秒に感じる地獄の日々。彼は猛練習で自ら追い込んだというよりは、追い込まれたのだ。
新井貴浩は、若手選手を徹底的に鍛える広島カープでプロのキャリアをスタートさせた。1998年のドラフト6位指名だったが、大学通算アーチはわずか2本塁打。打率は2割台前半で確実性はなく、守備も不器用でプロのレベルとは程遠かった。
それでも、新井は駒沢大の太田誠監督に「プロに行かせてください」と頭を下げ、監督は駒大出身の
大下剛史や広島カープの
野村謙二郎に連絡を取ってくれた。そして、野村は球団にドラフトで新井を指名するよう推薦してくれ、松田耕平オーナーも、「体が大きいので、もしかしたら打つかもしれない」と広島生まれの大砲候補の獲得を後押しした。

98年のドラフトで6位指名され、広島に入団[後列右から3人目が新井]
初めての春季キャンプで新井は
江藤智、
前田智徳、
緒方孝市、
金本知憲ら錚々たる主力陣のスイングスピードや飛距離に「これは無理だ」と圧倒されるが、身長189cmの大型スラッガーは1年目から、猛烈にしごかれた。約200球のカゴを3セットも打ちこみ、重さ3キロのバットで強く振る力をつける。
長内孝打撃コーチは、「ボールを飛ばす力はあったが、センスはあまり感じなかった」と入団当時の新井の姿を回想しているが、どんなに厳しい練習にも食らいつく、決して折れない心が印象に残っているという。
「すごい努力だったと思います。理屈でなく、たくさん数をやらせて、体で覚えさせようと思いました。そこに、新井は耐える能力がありました。これも大きな武器です。練習をやっても故障はしませんし、持ち前の明るさでついていくことができる人間でした。考えれば、彼には2つの武器がありました。打球を遠くへ飛ばすという武器、練習ができるという武器です」(週刊ベースボール2018年11月19日号)
「いつか這い上がってやるぞ」

6月6日の中日戦で初本塁打を放ち、ベンチで祝福される
1999年6月6日の中日戦(浜松球場)、「七番・一塁」で初スタメンを飾ると、この年MVPを受賞する相手エースの
野口茂樹からプロ初アーチを放ってみせた。フレッシュオールスターでは、逆転のタイムリー二塁打で優秀選手賞を獲得。1年目の打撃成績は53試合(105打席)、打率.221、7本塁打、14打点、OPS.773。大卒ルーキーとしては上々の数字にも思えるが、新井は毎日の猛練習の中で生き残るのに必死だった。すでに観客が入った球場で、「お前は外野で壁当てをしておけ」とコーチから命じられたこともある。背番号25は試合前にもかかわらず、野球を始めたばかりの小学生のように外野フェンスに向かって、いつか這い上がってやるぞとボールを投げ、跳ね返ってくるゴロを捕る練習をし続けた。
「当時は同じ年にドラフト1位で入団した東出(
東出輝裕)と2人で、特別な練習をさせられることが多かった。僕たちは、今で言う特別強化指定選手みたいな感じだった。同期入団の選手や、同じぐらいの年齢の選手が、練習を終えて引き揚げていくのを見ながら、グラウンドに残った2人で、『なんでオレたちばかり、こんなにやらされるんだ』と、よく話していたものだ」(撓まず 屈せず 挫折を力に変える方程式 (新井貴浩/扶桑社新書)
いつの時代も、若手選手は期待されて鍛えられているうちが花だ。99年シーズン、広島は5位に終わり、オフには「四番・三塁」の江藤智がFAで
巨人へ移籍した。すると翌年の春季キャンプから、新井は本格的に三塁練習を課せられる。チームから“ポスト江藤”を期待されたのである。なお、当時の新井の愛称はアイドルの滝沢秀明が人気だったことから“タッキー”。「名前がタカヒロだからですかねえ? でも、今までタッキーなんて言われたことがありません」なんて困惑する若かりし日の新井さんであった。
四番の重責に苦しみながら

練習、経験を積み重ね、やがて四番を任されるようになった
やがて兄貴分と慕った金本もFAでチームを去り、新井は四番の重責に苦しむことになる。2004年は極度のスランプで10本塁打に終わった新井に、打撃コーチの
内田順三は妥協せず厳しい練習を課した。内田は自著の中で、崩れたフォームを修正するために徹底的にバットを振らせながらも、その常軌を逸した練習量に自分は「新井をいじめているだけじゃないのか?」と自問してしまうほどだったと振り返っている。
「それでも必死になってついてくるのが、新井貴浩という男の最大の美点だった。猛烈に練習していることは誰の目にも明らかだった。新井が再び試合で起用されるようになっても、『なんで新井だけ使ってもらえるんだ』などと、不満が出るはずもない」(二流が一流を育てる ダメと言わないコーチング/内田順三/KADOKAWA)
そして、愚直にバットを振り続けた大学通算2本塁打の男は、阪神にFA移籍後、38歳で古巣・広島に戻り、チームを25年ぶりのリーグ優勝に導き、プロで通算2203安打、319本塁打という数字を残した。内田いわく「名球会に名を残した打者の中でも、いちばんの苦労人」だという。すでに時代は平成だったが、まるで努力と根性の昭和球界のような環境で野球に打ちこみ、這い上がった。ある意味、新井貴浩は厳しい練習で知られる広島カープの野球を象徴する男でもあったのだ。そして令和の今、その伝統を後輩の若い世代に継承すべく、監督3年目のシーズンを戦っている。
文=中溝康隆 写真=BBM