どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 「立浪、えぇやないか!」
「出足の一歩がものすごく速い。打球に対するカンが抜群ということだね」
これは週刊ベースボール1988年2月22日号掲載、中日の
正岡真二内野守備コーチの18歳・
立浪和義を評してのコメントである。同号の表紙を飾り、PL学園の主将として甲子園で春夏連覇を達成したゴールデンルーキーの立浪だったが、ドラフト前は地元・南海の単独1位指名が確実視されていた。しかし、中日が1位を予定していた
鈴木哲(慶大)がプロ入りを拒否して、社会人の熊谷組へ進むことを表明。そこで即戦力の投手から、立浪の1位指名へと方向転換するのだ。なお、本人は真っ先に評価してくれた地元・南海への感謝はあれど、憧れの
王貞治が率いる
巨人と戦えるセ・リーグでプレーしてみたい気持ちが大きかったという。元中日スカウトの
中田宗男は、立浪の野球センスを認めつつも小柄で体力的な不安があり、2位で残っていてれば獲りたいと考えていたが、
星野仙一監督が立浪の指名にこだわったことを明かしている。
<そんなとき、星野さんから「PLの立浪ってとうなんじゃ?」と聞かれた。
「立浪はいいですよ。守備だけならすぐ使えます。でも南海が早うから1位でいくと言うてますけどね」
そう答えた私に、星野さんは言った。
「1位じゃないと獲れないのか。よしわかった。立浪、えぇやないか!」>
(星野と落合のドラフト戦略 元中日スカウト部長の回顧録/中田宗男/カンゼン)

PL学園高の立浪
中日のショートには、1984年に本塁打王に輝いた強打の
宇野勝がいたが、星野は「(立浪が獲れたら)宇野をコンバートさせる。それぐらいの気持ちで(立浪を獲りに)いけ」とスカウト陣に発破をかけ、ドラフトでは闘将自ら立浪の当たりクジを引き当てるのだ。入団会見で立浪の身長173cmの体格を心配する質問に、星野は「男は体ではなく肝っ玉で大小が決まる」とかばい、キャンプインしてすぐ宇野を呼んで二塁転向を命じた。18歳の高卒ルーキーのために遊撃のポジションを空けたのだ。
立浪はベロビーチ・キャンプで練習中に手をついた際に右肩を痛め、体重も5キロ減ったが、必死にノックの雨に食らいついた。開幕直前の週べでは「立浪和義<中日>という男 久々に現れた“スーパー天才児”の心技体」という特集が組まれ、立浪の母の子を想うコメントが紹介されている、
「初めて知らない土地の名古屋へ行くわけで、親とすれば合宿所までついていきたかったわけです。あのコはでも“この先どうせ一人やから。大阪駅まででいい”ゆうて。正直、頼もしい思う一方、なんや寂しさも感じました」(週刊ベースボール1988年4月4日号)
高卒新人としては初のGG賞
やさしい顔をして、入団会見では周囲が心配するほど声も小さい。それでも、立浪はプロで生き抜く上で必要な強い精神力の持ち主だった。星野監督は、そんなルーキーに対して、「あいつは将来のウチをしょって立つリーダーだ」と期待を懸けてショートで起用するのだ。なお、この1988年当時、日本は未曾有の好景気で、春に開場した東京ドームで開催された「プロ野球トーナメント大会」の賞金総額は1000万円を越え、大会MVPの
クロマティには300万円もの賞金が贈られた。

華麗な遊撃守備を見せる
そして、1988年4月8日の大洋戦。立浪は「二番・遊撃」で開幕スタメンを飾るのだ。当日は午前10時までぐっすり眠ると、昇竜館の昼食に出たゲン担ぎのカツ丼を完食。光GENJIの「ガラスの十代」が鳴り響く中、左打席に立った18歳のルーキーのプロ初打席は二塁ゴロも相手エラーで出塁すると、第三打席で
欠端光則から、ライトフェンス直撃の二塁打を放ってみせた。高卒新人野手の開幕戦安打は28年ぶり史上3人目の快挙で、「打ったのはフォークボール。狙っていたんです。バットの先でうまく打つことができました」と堂々たるコメントを残した背番号3。これが、その後積み重ねる通算2480安打の第一歩にして、プロ野球記録の通算487二塁打の記念すべき一本目である。
「ゲームに出ながら、プロの体を作りたい」という宣言通りに、立浪は一軍の試合に先発出場しながら、寮に帰れば毎晩20分間のウエートトレーニングに励んだ。5月は50打数16安打の打率.320と安打を積み重ね、6月には打率2割9分台にまで上昇させる。開幕前は「素質は一流だけど、シーズンを通じて持つかな?」と言っていた同僚の
落合博満も、「ありゃ、あのまま行くぞ」と称賛を送り、オールスター戦に遊撃部門のファン投票1位で選出された。
驚異のルーキーは、初優勝に向かって突き進む星野中日の原動力となり、新人王は間違いなしという声すら出たが、後半戦は打撃不振に苦しみ、19歳の誕生日を迎えた8月には打率2割2分台まで急降下。この時、立浪は毎日試合が続くプロ特有の疲労だけでなく、右肩の痛みが限界まできていたという。
「体力不足を感じるだけではありませんでした。シーズンの途中からは右肩が痛くなり、終盤にはまともにボールがなげられないほど痛みがひどい状態になっていました。開幕前のキャンプ中にバランスを崩して右手をついた時に肩を痛めたのですが、シーズン中にヘッドスライディングで帰塁した時、また同じ場所を痛めてしまったのです」(勝負の心得/立浪和義/産業編集センター)
痛み止めの注射を打ちながら試合に出続けるも、
西武との日本シリーズではまともにボールが投げられない状態にまで悪化していた。それでも110試合に出場して、75安打を放ち、規定の403打席にもペナント最終戦で到達。打率.223、4本塁打、18打点、22盗塁、21犠打という成績を残してチームのリーグ優勝に貢献した。宿敵の巨人戦に強く、カード別打率.313をマーク。高卒新人としては初めて、ゴールデン・グラブ賞を受賞する。なお、高卒新人野手が新人王に選ばれたのは、この37年前の立浪が現時点では最後だ。1988年のルーキー立浪和義は、それだけ完成度の高い遊撃手だったのである。PL学園の中村順司監督は、“天才”と称された教え子について、こんなコメントを残している。
「私が送り出した中で、即プロで通用する自信があったのは、桑田(巨人)、清原(西武)と立浪の3人だけだ」(週刊ベースボール1988年6月27日号)
文=中溝康隆 写真=BBM