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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】記録にも、記憶にも残る世紀末の黄金新人 時代の寵児だった1999年松坂大輔

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

甲子園春夏連覇から西武入り


西武1年目の松坂


「シーズン前に10勝できないと思っていた人たちを見返すことができました。どうだという感じですね」

 1999年7月31日、ロッテ戦に先発した松坂大輔は8回途中1失点の好投で、高卒ルーキーとしては1967年の江夏豊(阪神)以来、32年ぶりの二ケタ勝利を達成した。この試合、“平成の怪物”は、プロ初の無四球ピッチングでリーグ10勝一番乗り。7月は初の月間MVP受賞と、18歳の勢いはとどまることを知らなかった。

 1998年に横浜高校を甲子園春夏連覇に導いた右腕は、夏の決勝戦でノーヒットノーランを達成。同年のドラフト会議では3球団から1位指名され、西武ライオンズが交渉権を獲得していた。ドラフト前、松坂が意中のチームは「在京セ」と口にしたことから、希望は横浜ベイスターズ一本と報道されていたが、子どもの頃から西武は好きな球団のひとつだったという。1980年生まれの松坂の憧れは、PL学園の“KKコンビ”桑田真澄清原和博である。当時、入団交渉で東尾修監督が自身の200勝記念ボールを松坂に手渡したと報道されるも、実は第1回交渉前にマスコミ非公開の食事会で東尾監督が持参したものだった。

大晦日には東尾監督[右]と増上寺で除夜の鐘をついた


 1998年12月28日、東京プリンスホテルでの入団発表には55社268人の報道陣が大集結。西武の新人選手の単独入団会見は清原和博以来13年ぶりのことだった。3日後の大晦日には、東京・芝の増上寺で東尾監督や両親とともに除夜の鐘をついた。こうして、“1999年の松坂フィーバー”は幕を開けたのである。

キャンプから大フィーバー


キャンプ、オープン戦に大勢のファンが詰めかけた


 キャンプインすると、2月14日のバレンタインデーでは、西武史上最多の1200個のチョコがキャンプ地の高知に届き、春野球場には球団新記録の1万5000人のファンが押し寄せた。あまりの人気ぶりに、先輩投手の谷中真二が背番号18のグラウンドコートを着て松坂の影武者を演じたほどだった。オープン戦が始まると、巨人戦で8失点を喫するなどなかなか結果が出ない。3月20日の本拠地・西武ドームでの巨人戦でも、リリーフ登板して仁志敏久後藤孝志に二者連続アーチを浴びたが、松坂は「相手を舐めすぎてました」と強気なコメントを残している。この時期、当の本人は調整と割り切り、プロの打者に自分のボールが通用するのか色々試しながら投げていたという。

「打たれたことで学ぶことが多いというのは、自分自身ずっと思っていたことだった。特に松井(松井秀喜)さん、由伸(高橋由伸)さんといった、左の強打者の内角、そして高めの球に対する反応を見たかったということはあった。巨人は日本シリーズに行けば当たる可能性のあるチームだ。オープン戦では、公式戦で当たった時にはしっかりとした投球ができるようにすればいいとだけ思っていた」(怪物と呼ばれて/松坂大輔/SBクリエイティブ)

 すると、開幕ローテ最終テストと注目された3月28日の横浜戦で、松坂は前年の日本一チームが誇る“マシンガン打線”を6回2安打1失点の11奪三振に抑えてみせる。高卒新人投手のオープン戦二ケタ奪三振は史上初めてのことだった。この試合後、監督室に呼ばれ開幕一軍入りを告げられる。

プロデビュー戦で155キロ


プロデビュー戦で片岡から155キロ直球で空振り三振を奪う伝説のシーンが生まれた


 西武球場に屋根が付いたドーム元年、その目玉として開幕カードのダイエー戦での背番号18の本拠地デビューが確実視されていた。現に巨人とのオープン戦は、雨にもかかわらず4万3000人もの大観衆が詰めかけたのだ。堤義明オーナーも開幕カードでの先発デビューを熱望したが、東尾監督は本拠地よりも、東京ドームの傾斜があるマウンドが、体を沈めてウエートをしっかり左足に乗せる松坂には合うと見ていた。

「問題はいつ投げさせるかだ。球団からは『西武ドームでの福岡ダイエーとの開幕2連戦で投げさせたい』という要請もあった。開幕投手の西口文也に続く第2戦目では、前日が勝ちでも負けでも、新人にはプレッシャーが大きすぎる。(中略)『何とか勝ち星でプロ野球人生をスタートさせてやりたい』と思って選んだのが、開幕第4戦、東京ドームでの日本ハム戦だった」(負ける力/東尾修/インターナショナル新書)

 結果的のこの決断が、あの伝説として語り継がれる4月7日のデビュー戦へと繋がっていく。1回裏、三番・片岡篤史から空振り三振を奪った真ん中高めの155キロの直球は、平成史の記録映像としてその後繰り返し放送されることになる。松坂は6回一死までノーヒットノーランに抑え、小笠原道大に初安打と2ランアーチを浴びたが、8回5安打9奪三振の2失点でプロ初登板を白星で飾った。

 衝撃の155キロデビューは瞬く間に社会現象となった。4月14日近鉄戦の本拠地初登板には、徹夜組も含む4万2000人のファンが集結する。これは4月の平日ナイターでは西武球場時代からの最多記録で、テレビ朝日も緊急生中継を決断した。この2戦目でプロ初黒星を喫するも、“いてまえ打線”を3安打に抑えて完投、自責点0(失点2)の堂々たる内容だった。『週刊ベースボール』1999年5月17日号では、「検証『松坂効果』比類なき18歳の天才が球界にもたらしたもの」という特集が組まれており、ゴールデンルーキー登板日の規格外の集客力を報じている。

・4月7日 日本ハム戦(東京ドーム)4万4000人
(前日の同カード1万6000人)
・4月14日 大阪近鉄戦(西武ドーム)4万2000人
(前日の同カード1万人)
・4月21日 千葉ロッテ戦(千葉マリン)3万5000人
(前日の同カード8000人)
・4月27日 千葉ロッテ戦(西武ドーム)3万4000人
(前日の同カード1万7000人)

4月27日のロッテ戦では黒木に投げ勝ち、プロ初完封勝利をマーク


 背番号18が投げる試合は、当日券売り場に長蛇の列ができ、通常よりも数万人観客が増え、満員御礼となる。まだ球界再編前の集客に苦戦していたパ・リーグで、本拠地だけでなく、対戦相手のビジター球場も満員にしてみせた恐るべき18歳は、球界の救世主だった。西武球団は金の卵が花粉症に悩んでいると聞けば第二球場周辺の杉の木を伐採し、西武ドームのマウンドの傾斜も松坂の好みに調整した。4月27日のロッテ戦は、午後6時に民報4局とNHKが夕方のニュース枠を使い一斉に先発松坂を生中継するというお祭り状態に。しかも、この試合で背番号18はなんと3安打10奪三振のプロ初完封勝利をあげるのだ。前回登板で投げ負けた相手エース黒木知宏との再戦で、宣言通りの“リベンジ”を果たす。これには黒木も「末恐ろしい? いやいや、もうすでに恐ろしいですよ、あの子は……」と脱帽した。

イチローから3奪三振の衝撃


イチローとの初対決では3三振を奪う圧倒的なピッチングを見せた


 5月3日の近鉄戦、大阪ドーム開業年以来となる超満員の4万8000人が見守った一戦で、松坂は右手中指に異変を感じ、プロ最短の4回途中4失点KOを食らい翌4日に登録抹消されてしまう。開幕からローテ入りして、デビュー戦が132球、その後も155球、145球、146球と現代の価値観では考えられない球数を投げる18歳の起用法に対して、当時から批判の声も当然あった。

 だが、復帰登板となった5月16日のオリックス戦で、松坂は凄まじい投球を見せる。注目はもちろん当時5年連続の首位打者に輝き、日本球界に敵なしだったイチローとの初対決である。西武ドームで超満員の大観衆が見つめる中、18歳の少年は、この7歳上の天才打者に計18球を投じ、驚愕の3打席連続三振を奪ってみせる。141球を投げ、8回3安打無失点の13奪三振の快投を披露した18歳は、試合後のヒーローインタビューで、「今日で、自信から、確信に変わったと思います」と口にするのだ。バッテリーを組んだ捕手の中嶋聡は、オリックス時代の同僚イチローが打席に入ると、「ウチのスーパールーキーをつぶすなよ。いいピッチャーだからなあ。良くても悪くても、褒めてやってくれ」と声をかけたという。『週刊ベースボール』で、オフに松坂がイチローと対談した際、初対戦をこう振り返っている。

「とにかくイチローさんに対してだけ、目いっぱい投げました。スピードとか全然違うので、あとで監督に怒られましたね。ほかの人にも力を入れてるんですけど、イチローさんだとそれ以上の力を出そうとするんで……」(週刊ベースボール2000年1月17日号)

 だが、イチローもやられたまま引き下がるような男ではなかった。3度目の直接対決となった7月6日には、完封目前の松坂からセンターバックスクリーン左へ通算100号アーチを放って見せるのだ。打たれてもスポーツ新聞の一面を派手に飾るゴールデンルーキーは、7月13日の近鉄戦でわずか内野安打1本に抑え、ハーラートップタイの8勝目を1安打完封で花を添えた。当然、オールスターファン投票では、投手部門史上最多の96万0754票を集めて文句なしのトップ選出。真夏の祭典の主役は、前半だけで9勝をあげた西武の背番号18だった。第1戦、セ・リーグ先発の上原浩治(巨人)とのルーキー対決が注目されたが、松坂は2失点(自責点0)も高卒新人最多の5三振を奪い、優秀選手賞に選出された。

9月には日本代表としてマウンドに


 後半戦のローテの軸は18歳のルーキーが担う。3連覇を目指す西武は首位ダイエーを追いかけ、夏場は勝負どころで松坂に頼る場面も増えていく。東尾監督は、背番号18が9月2日の日本ハム戦で15奪三振、137球の完投で13勝目をあげた3日後、9月5日の近鉄戦に中2日で同点の9回から初めてリリーフ登板させたのだ。この試合、3イニング41球のノーヒット投球で14勝目。さらに続けざまに中2日で8日ダイエーとの首位攻防戦にも先発。毎回の10奪三振を奪い、2失点に抑えていたが、7回裏二死、ついに体が悲鳴を上げる。松中信彦に対して、その試合125球目を投じた直後に左大臀筋がつり、マウンドを降りた。

9月には日本代表の一員として五輪予選決勝リーグの台湾戦に登板した


 しかし、平成の怪物は驚くべきことに休むのではなく、19歳の誕生日を迎える9月13日には日本代表チームの一員としてソウルに渡り、15日に五輪予選決勝リーグの台湾戦に先発するのだ。シドニー五輪からプロ野球選手の出場が解禁となり、松坂はいわばプロ・アマ混合の新チームの顔だった。あらゆるものを背負い、19歳になったばかりの日本のエースは台湾戦のマウンドに上がると、古田敦也(ヤクルト)の巧みなリードにも助けられ、3安打13奪三振の1失点完投勝利で日本を五輪に導いた。

 9月25日には王ダイエーの初Vが決まるが、29日のロッテ戦に先発した松坂は、「今日は生まれて初めて自分のためだけに投げました」と16勝目をあげ、最多勝のタイトルを手中にする。1年目は25試合(180回)、16勝5敗、防御率2.60、151奪三振。高卒ルーキーの15勝到達は、ドラフト制後では1966年の堀内恒夫(巨人)以来2人目。最多勝獲得は1954年の宅和本司(南海)以来、45年ぶり2人目の快挙だった。新人王に加え、高卒新人として初めて、ベストナインとゴールデン・グラブ賞にも輝いた。1999年シーズン、西武の観客動員は松坂効果で前年比32.5パーセント増の183万4000人を記録。西武グループの顔として、営業面の大きな貢献も加味され、12月1日の契約更改では1300万円から5700万円アップの推定年俸7000万円で一発サイン。438パーセントのアップはルーキーとして史上最高となった。

「リベンジ」は「日本新語・流行語大賞」の大賞に選ばれた


 松坂が春先に口にした“リベンジ”は、第16回「日本新語・流行語大賞」の大賞を受賞。12月13日には、港区の高輪プリンスホテルで盛大にCM出演共同記者会見が行われる。松坂が契約したのは、日立、全日空、キリンビバレッジ、カシオ、ミズノの5社。各社推定8000万円、計4億円の大型契約をテレビカメラ17台、120社300人のマスコミが報じた。空前の松坂フィーバーの締めは、12月31日のNHK紅白歌合戦。ゲスト出演して、第2部開始宣言の大役を担った。

 社会現象となった記録にも、記憶にも残る世紀末のゴールデンルーキー。1999年の松坂大輔は、まさに時代の寵児だったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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