小倉前監督を支えてきた三木監督

就任3年目の日大三高・三木監督は母校を率い、初の決勝進出へと導いた[写真=牛島寿人]
【第107回全国高等学校野球選手権大会】
8月21日 準決勝
阪神甲子園球場
日大三[西東京]4-2県岐阜商[岐阜]
(延長10回タイブレーク)
日大三高はなぜ、14年ぶりの決勝進出を果たせたのか。
勝利を逆算した、本物のチームワークが醸成されているからである。
甲子園ではエース・近藤優樹(3年)の「笑顔」が、たびたび取り上げられている。2023年4月から母校を指揮する三木有造監督も終始温和で、ベンチから選手たちをリ
ラックスさせた采配が見られる。
これらの「スマイル」にだまされてはいけない。日大三高ナインは、甲子園で楽しそうにプレーしているように映るが、勝負の世界はそう甘くはない。確固たる裏付けがある。
東京都町田市内にある日大三高は学校、グラウンド(室内練習場が隣接)、合宿所(三志寮)が3点セットの充実した環境で活動している。指導者も、相当な覚悟がなければ務まらない。三木監督、白窪秀史助監督、中島健人部長が手を取り合いながらの「24時間指導」である。庄司智則アスレティックトレーナーも親身になって、生徒たちの体のケアに当たっている。
団体生活でごまかしは、通用しない。厳しさの中にも、指導陣の優しさがある。風通しの良い空気を作り上げたのが、23年3月末までチームを率いた小倉全由前監督(侍ジャパン高校日本代表監督)だ。「努力は嘘をつかない」。2001年夏、11年夏に全国制覇へと導いた名将のモットー。三木監督は1999年2月に同校事務職員となり、02年4月から副部長、11年5月から部長として、小倉前監督を支えてきた。
決して忘れない「恩」
三木監督は受けた「恩」を決して忘れない。
和歌山県出身。東京の日大三高とはまったく縁のない土地で過ごした。風向きが変わったのが、2歳上の兄が智弁和歌山中に入学してからである。実兄の同級生の兄が日大三高でプレー。1985年夏、甲子園での観戦をきっかけに「野球をやるなら、三高」と心に決めた。
日大三中では2年秋に都大会4強。あこがれの日大三高では1年秋からベンチ入りし、2年秋から四番・捕手も甲子園出場は果たせなかった。東洋大では練習合流直後の2月に肩を痛め、不遇の4年間を過ごす。だが、下を向くことなく、練習のサポート役に回った。
大学4年になり、一般就職を模索している最中、日大三中時代の恩師・新井勇治先生から声がかかる。中学野球を教える中で「こういう道もあるのかな」と、指導者への思いが芽生えた。一般就職は白紙に戻し、卒業後2年間をかけて、教員資格(社会科)を科目等履修生で取得することを決めた。夜は警備員のバイト。先行き不透明な不安な日々を過ごしていると、新井先生から再び声がかかる。
三木部長が大学を卒業した97年4月、このタイミングで小倉全由監督が日大三高の指揮官に就任。グラウンドへあいさつに行った。
「小倉が言うんです。『(練習を)手伝ってよ』と。私はまず、疑いから入る人間だったのでなぜ、初対面の人にそんなことを言えるんだ、と。今まで会ったことがない人でした」
小倉監督からしてみれば、自然と出た言葉だったが、受け取った三木監督からしてみれば驚きしかなかった。大学授業の合間に週4回、グラウンドに顔を出した。2年目の秋(98年)、チームは都大会優勝。翌春のセンバツ出場が決まると「肩書がないのは恥ずかしいから、履歴書を持ってこい、と言われて」と、同2月に事務職員として採用された。
同春が、小倉監督にとって母校・日大三高を率いて初の甲子園。以降、三木部長は全18大会(春7回、夏11回)で小倉監督に仕えた。99年4月に三志寮に入寮。指揮官同様、生徒たちの面倒を親身になって見た。母校に奉職してから26年、コンビを組んできた。部長時代、三木監督はこう語ったことがある。
「選手を一番に思う、監督の小倉の下にいる部員はうらやましい。選手は『監督を男にする』と言いますが、これは理屈ではない」
指導者と生徒の信頼関係は強固
23年4月、小倉前監督からバ
トンを継いだ。同夏は2年連続甲子園出場へと導き、右腕エース・
安田虎汰郎(早大2年)を擁して3回戦進出。昨夏は早実との西東京大会決勝で9対10と、無念のサヨナラ負けを喫している。2年ぶりの甲子園出場を目指した今年6月、控え投手の右腕・川上幸希(3年)は、チームの総意としてこう決意表明していた。
「僕たちは(23年4月に入学)三木さんの1期生。三木さんを男にしたい」
小倉監督前体制と、同じフレーズが出たのである。指導者と生徒の信頼関係は強固だ。三木監督のモットーは「ガッツ、気合、根性」である。まるで家族のような雰囲気を築き上げた小倉前監督のイズムを継承し、この3年間、地道にチームを育成。部員75人で、今夏の甲子園4試合を勝ち上がってきた。準々決勝では、かつて小倉前監督が率いた関東第一高(東東京)との東京対決を制した。そして、準決勝では、準々決勝でセンバツ優勝校・横浜高を撃破し、勢いに乗っていた県岐阜商を延長10回タイブレークの末に制した。

主将・本間律輝[左端]を中心に伝統のチームワークは健在。部員75人で決勝まで勝ち上がってきた[写真=牛島寿人]
関東第一高との準々決勝では代打・豊泉悠斗(3年)が代打で先制適時打。県岐阜商高との準決勝では、2点をリードした延長10回二死一、三塁で強烈な一ゴロを古関健人(3年)が体で止め、自らベースを踏んでゲームセット。一つ前の相手打者で、暑さと疲労から下半身に不安があった四番・一塁の
田中諒を下げていた。三木監督の好さい配は、常日ごろから細部まで見てきた指導力が背景にある。
全国3441チームの頂点を決める決勝でも、背伸びをすることはない。学校、グラウンド、三志寮で取り組んできたことを発揮することに、集中するだけだ。厳しい日常を苦しみ抜き、75人で乗り越えてきたからこそ、大舞台では笑顔でプレーできる。相手チームをリスペクトし、全力プレーを貫く日大三高は、まさしく高校野球の模範であり、応援したくなるチームだ。14年ぶり3度目の全国制覇への挑戦。三木監督は2011年夏、責任教師として深紅の大優勝旗を手にした。独特の空気が流れると言われる決勝でも、三高を愛する三高ファミリーの『父』として、陣頭指揮を執る。
文=岡本朋祐