どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 “外れ1位”で大洋へ

大洋1年目の佐々木
「大洋は僕を1位で行くと言ってくれていたんです。それが野茂(
野茂英雄)を指名したから大学サイドは『オイッ!』と怒っていました。というのは、当時の僕は『プロ拒否』を表明していたんです。もう時効だから言いますけど、大洋が僕を一本釣りしたいから、そう言ってくれと」(ベースボールマガジン2024年8月号)
1989年のドラフト会議で、東北福祉大の
佐々木主浩は“外れ1位”でプロ入りした。平成初開催のドラフト会議は野茂英雄(新日鉄堺)に史上最多の8球団が1位入札。最後に抽選箱に手を入れた近鉄の
仰木彬監督が交渉権を引き当てた。そして、野茂を逃した大洋が、佐々木を外れ1位指名するわけだ。佐々木は「教員志望」を公言も、当時の週刊ベースボールでは、「大洋スカウト陣のチーフ
若生照元取締役は、佐々木の高校(東北)の先輩にあたる。二度の腰の手術の際にも、病院、執刀医師を紹介するなど、面倒を見続けてきた」と二人の関係に注目し、他球団スカウトからも「大洋なら行くのでは?」との声が高かった。

1990年にドラフト1位で大洋に入団した。左から3人目が佐々木
なお、ドラフトで次の指名順の
日本ハムも佐々木を高く評価して、外れ1位を考えていたという。こうして、あらゆる運命が交差して、のちの“ハマの大魔神”は誕生したわけだ。初めての沖縄・宜野湾キャンプでは、佐々木が練習の合間のアンダーシャツの着替えを面倒だからとごまかそうとしたら、先輩の
遠藤一彦から「お前、腰が悪いんだろう。汗をかいたら冷えるんだから、こまめに取り替えなくちゃダメじゃないか」と一喝された。身長190cm近い佐々木のプロレスラーばりの巨体に、大ベテランの
新浦壽夫からは有名レスラーの“ビガロ”とあだ名をつけられた。それでも、いざブルペン入りすると、視察した評論家の
江川卓が「オレ以来の速球派だな」と驚くストレートを投げ込んでみせる。セ・リーグのある審判員はその球筋を見て、「こりゃスゴイ。低めの球は伸びがあるし、高めはホップする感じ。ワタシが見た中では池永(元西鉄)以来の速球派だよ」と絶賛した。
キャンプ前の
須藤豊監督は、「まあ焦ることはないじゃないか。一軍には5、6月頃に出て来てくれれば」と佐々木を大事に育てたいと口にしていたが、実際にその圧巻の投球を目の当たりにするとどうしても使いたくなる。背番号22はオープン戦で3試合に投げて、計6回無失点としっかり結果を残して開幕一軍入り。この1990年からセ・リーグは延長15回、引き分け再試合の制度を採用していたため、多くの投手を必要とするブルペン事情も追い風となった。
「年長の先輩達はとにかく恐かった」

1990年5月24日のヤクルト戦でプロ初勝利をマークした
ルーキー佐々木は、さっそく
中日との開幕戦でデビューする。敵地ナゴヤ球場で、相手のドラフト1位・
与田剛と投げ合い、延長11回に先頭の
落合博満から決め球のフォークボールでプロ初奪三振を記録。1回を無失点に抑え、佐々木は最速148キロと与田の152キロには及ばなかったが、「与田さんより僕の方が速いと思った」と対抗心を隠そうとはせず、“新人豪球対決”と騒がれた。
佐々木のプロ初セーブは4月11日の
広島戦、横浜スタジアムでチーム4年ぶりの開幕3連勝に貢献する。地元・仙台での凱旋試合となった5月13日の中日戦では、プロ10試合目にして指揮官の親心で初先発のマウンドへ。結果は5回途中7安打3失点で降板するも、須藤監督は「新人であそこまで投げられたらOKですよ」と以降の先発起用を示唆した。
1990年の須藤大洋は好調で、5月には一時首位に立ち、その後も首位
巨人をピタリと追う2位の座をキープ。先発・佐々木も、5月24日のヤクルト戦で待望のプロ初勝利を挙げた。3点リードの9回裏、マウンドには長年エースを張り、この年からクローザーに転身した遠藤一彦がいた。試合後、遠藤は神宮球場の三塁側ベンチ最前列で、祈るような表情で戦況を見つめていた佐々木に向かって、ウイニングボールを手渡す。「すみませんでした。ありがとうございます」と頭を下げる佐々木の頭を、グラブでポンと叩いた遠藤は「今日は嬉しいセーブだね。若い連中がああやって喜んでくれる。もう一つの野球の楽しみ方を見つけたみたいだよ」(タフに生きる:プロ野球トップスターのいきいきライフ/永谷脩/世界文化社)という談話を残している。なお、翌91年に遠藤の故障で、代役の抑えに指名されたことが「クローザー佐々木」の始まりである。
そして、佐々木自身も6月23日の広島戦で2勝目を記録するも、この試合で自ら二塁打を放ち、けん制で帰塁しようとした際のスライディングで右足小指を骨折してしまう。長期離脱となり、先発ローテの座を手放すことになるのだから、ルーキーはさぞかし落ち込んでいると思いきや、佐々木は真逆の心境だったという。実はプロ1年目、新たな環境での人間関係に疲れ、自著で「二軍落ちしたことがうれしかった」と振り返っている。
「年長の先輩達はとにかく恐かった。何かちょっとでもしでかすと、すぐ文句を付けられる。直接言ってくれるのならまだしも、小言が中堅どころを媒介して回って来るものだから、私のところへ到達するまでに、文句に込めた怒りが増幅されてしまうのだ。(中略)その矢先に骨折したものだから、あるまじきことではあるけれど…『これは渡りに舟!』と、もう、うれしくてたまらなかったのだ」(奮起力/佐々木主浩/創英社)
豪快さと繊細さが同居
佐々木は型破りの新人だった。入団後1年間は車を運転してはいけない球団規則があったが、契約金で念願のポルシェ928を買い、気分転換に乗り回した。寮の集団生活が性に合わず、1年目から無断でマンションを借りて、そこで寝起きする。その振る舞いは当然、先輩たちから目をつけられた。プロ入りは1年先だが3学年下の谷繁は、そんな豪快な佐々木の姿を鮮明に覚えているという。
「車にしても1年目からポルシェに乗っていました。先輩から見ると、まだ実績も残していない新人が外車なんか乗りやがってとなるんでしょうけど、佐々木さんからすると『自分のお金で買っているんだからいいでしょ』と。自分の稼いだ金で買っているんだから、間違いではないんですよ。ただ、先輩からは必ずしも好意的な目では見られないタイプの方でしたね」(ベースボールマガジン2024年8月号)
同時に谷繁は捕手ならではの観察眼で「本当の佐々木さんってすごく繊細なんですけど、豪快に見せるところもありました」と背番号22の素顔を垣間見ていた。ベテラン捕手の
市川和正も、バッテリーを組んだ10歳も年下の佐々木の意外な一面を語っている。
「抑えに回った最初の頃、マウンドに行くと、深く、深く深呼吸をしているんだ。彼はデカいからその表情を見上げると、目線が定まっていない。あの体格からはなかなか想像できないけど、メンタル的に非常に繊細な部分がある。だから僕は『大丈夫だ、佐々木。しっかり放ってこい』とポジティブなことしか言わなかった」(ベースボールマガジン2024年8月号)

1年目は16試合に登板して2勝4敗2セーブ、防御率5.85をマークした
豪快さと繊細さが同居する若かりし日の佐々木。大学時代は幾度となく寮を飛び出し、懲罰で八度も丸刈り頭になった。かと思えば、後輩たちに理不尽なイジメは絶対にせず、しっかり面倒を見る。そんな佐々木にとって、先輩から解放され、ファームで同世代や年下の選手たちと汗を流すのは、気がラクだったし楽しかった。結局、一軍復帰は怪我から3ヶ月後の閉幕が近い9月25日。プロ1年目は16登板(7先発)で2勝4敗2セーブ、防御率5.85。47.2回を投げて44奪三振という成績で終えた。
投手タイトルを独占した野茂や最優秀救援に輝いた与田を始め、
佐々岡真司(広島)や
小宮山悟(
ロッテ)ら他球団のドラフト1位投手が続々と活躍した中で、期待はずれという声があったのも事実だ。だが、仮に佐々木が怪我をせずに先発として最後までローテを守り続け、それなりの勝ち星を挙げていたら、翌年の抑え転向はなく、同学年の
清原和博との名勝負や、日米通算381セーブの大魔神誕生もなかったかもしれない。
その1年が成功か、失敗か……なんて引退するまで分からないのだ。まさにクローザー佐々木主浩にとって、助走期間であり、分岐点ともいえるプロ1年目であった。
文=中溝康隆 写真=BBM