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月刊プロ野球ヒーロー大図鑑

元ドライチの殻を破った阪急ブレーブスの伝説のマスコット、ブレービーの物語。

 

巨人のドライチも現役では1勝のみ


ブレービーとして活躍した島野修さん


 今回は2025年10月末に発売された「月刊プロ野球ヒーロー大図鑑20号」に掲載された「ブレ―ビー徹底研究!」を一部抜粋する。

 オリックスの前身・阪急ブレーブスのニックネームから名前がついたマスコットが「ブレービー」。登場したのは1981年だ。

 いわゆる鳥系マスコットだが、今とは違い、中に入っていた人(スーツアクター)がオープンにされていた。

 1969年、巨人にドラフト1位で入団した島野修だ。

 武相高では快速球で鳴らした投手で、2、3年夏と甲子園に連続出場している。ドラフト指名直後のインタビューで自身の性格について、「陽気も陽気、大陽気なほうだと思いますよ。それに自分の納得のいかないことは、とことん突き詰めていかないと気がすまないんです」と言っているのは、のちを考えると興味深い。

 ただ、層の厚いV9時代の投手陣になかなか食い込めず、勝ち星は1年目の1勝のみ。「巨人のドライチ」の勲章が徐々に重荷になっていた。

 チャンスをつかんだのは、74年秋、メッツとの親善試合だ。リリーフで6試合に投げ2勝2敗。翌75年、長嶋茂雄監督初年度は春のベロビーチキャンプのメンバーにもなり、そこでも好投。開幕から一軍入りし、先発のチャンスももらった。「今年は行けるぞ」という自信もあったが、結果は0勝3敗。オフには阪急移籍となった。

 しかし黄金時代の阪急は巨人以上に層が厚く、肩を痛めたこともあって、一軍登板はなく、78年限りで現役引退。1年間、打撃投手を務めたあと、退団した。

思わぬ提案


 その後、喫茶店兼スナックを経営。阪急の球団職員が訪ねてきたのは秋だった。 そこで思わぬ提案をされた。

「球団を応援するブレービーという着ぐるみに入ってみませんか」

 実は島野、とにかく明るく、現役時代は、いわゆる宴会部長。納会での歌手・山本リンダの『こまっちゃうナ』が十八番だった。

 球団職員はフィリーズのマスコット「ファナティック」の写真を見せてマスコットの仕事を説明。ただ、当時の日本球界にもヤクルトのヤー坊、スーちゃん、日本ハムのギョロタンとマスコットはいたものの、さほど話題にはなっておらず、「なんで、わざわざ俺に声を掛けたんだろう」と、島野の頭は「?マーク」でいっぱいになった。

 後日、球団が準備してくれたMLBのマスコットたちのビデオを見て、パドレスの「ザ・フェイマス・チキン」のパフォーマンスに驚いた。さまざまなパフォーマンスをしながら球場のファンを沸かせ、チームとファンをつなぎ、一緒に試合をつくっていた。

 島野の現役時代から阪急の大きな課題が集客だった。もしかしたら、選手としてはまったく役に立てなかった自分がチームに貢献できるかもしれないと思った。

 ただ、家族も反対。自身も悩みに悩んだ。「それでもやってやろうじゃないか、と思った。俺にしかできないオリジナルのもの、野球の世界を知っている俺でないとできないものが、きっとあるはずだ、と」

進化したパフォーマンス


 承諾したあと、着ぐるみ人形劇をやっていた「劇団こぐま座」で、さまざまな動きやパフォーマンスを教えてもらった。これはこぐま座の関係者がギョロタンの着ぐるみをつくり、ブレービーの担当でもあったからだ。

 81年4月11日の日本ハム戦(西宮)でデビュー。前述のように最初から中に島野が入ることは隠していなかった。10キロ以上の重さの着ぐるみをつけながら動くのは簡単ではないが、そこは元選手。スピーディにグラウンドを駆け回り、おどけて、ずっこけてスタンドを喜ばし、選手の尻をたたき、鼓舞した。

 台本があるわけではない。コミカルにやり過ぎてゲームの緊張感を途切れさせてはいけないが、そのさじ加減も元選手だけあって絶妙だった。

「でも苦しいよ。0.1秒のタイミングなんだよ。その0.1秒を逃すと出ていけなくなる」

 年々、パフォーマンスも進化。微妙なジャッジで上田利治監督に「行け!」と言われ、審判に抗議するふりをしたり、相手バッターのスイングのまねしたりしたこともある。

 好意的な声ばかりではない。「ドラフト1位が何をやっているんだ」とヤジられることも多かった。新聞記事で「ドラフト1位が道化に」とネガティブな記事を書かれたこともある。落ち込んだこともあるが、そんなとき、いつも思い出す言葉があった。

忘れられぬ言葉


 試合のあと、球場近くの食堂で一人で酒を飲んでいたときだ。試合帰りの客がほとんどだったが、もちろん、誰も島野の顔を知らない。

 なんとなくむなしくなっていたとき、子どもが「お父さん、あしたもブレービーを見にこようよ。面白かったね」と父親に言っているのが聞こえた。

「そこから、たとえ一人でも、自分のことを見たいと思ってくれるファンがいるんだ思った。あの言葉のおかげで、この仕事をやってこれた気がします」

 球団がオリックスになってもブレービーは継続。心掛けたのはケガや熱があっても休まないこと。ニックネームが「ブルーウェーブ」になってからは「ネッピー」となり、93年のオールスターではバギーカーで転倒し、ろっ骨を3本骨折したこともあるが、コルセットをつけ、出続けた。

 96年、目標の1000試合出場を達成。記念セレモニーではイチローから花束をもらった。

 98年10月3日の近鉄戦(GS神戸)を最後に引退。

「体力の限界です。動きも悪くなっていましたし、1000試合が自分の目標でしたから」と笑顔で語った。18年間の主催1175試合は皆勤だった。

 島野は2010年5月8日、脳出血で死去。まだ59歳だった。

写真=BBM
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