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プロ1年目物語

【プロ1年目物語】多摩川に1万人のファン…異常とも言えるフィーバー 80年代プロ野球の“象徴”巨人・原辰徳

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

屈指の人気を誇るスーパーアイドル


巨人1年目の原


「これまで“長嶋二世”と言われた選手は、かなりいましたが、私、思うんです。『原は本当の意味の“長嶋二世”になりうるんじゃないか』と」(週刊ベースボール1981年1月5・12日合併号)

 前年の秋、監督の座を退任したばかりの長嶋茂雄は、ひとりのルーキーを自身の後継者に指名した。巨人の原辰徳である。長嶋が去り、王貞治も現役引退した1980年秋、ドラフト会議で4球団競合末に巨人の藤田元司新監督が、東海大の原を抽選で見事に引き当てる。甲子園のアイドルから、大学球界のプリンスへと成長した22歳のスラッガーが、本人の希望通り巨人入り。その瞬間、読売新聞社ビル7階の社長室では、抽選の行方をブラウン管越しに見つめていた巨人の正力亨オーナーが、「テレビを見ていて歓喜したのはここ数年ぶりのことだ」と、長谷川実雄代表と抱き合って喜んだという。報知新聞の一面には「原に背番号3」の一面大見出しが踊り、雑誌『Number』1980年12月5日号のキャッチコピーは、「俺達はスーパースターに飢え始めた。だから『消えるONと原辰徳』特集だ!」である。いわば、原は“ポストON”というプロ野球史上誰よりも重い宿命を背負わされた新人選手でもあった。

 そして、一方で原は当時屈指の人気を誇るスーパーアイドルでもあった。アイドル雑誌『週刊明星』1981年新春特大号で、「俺の初春! 原辰徳」という野球部の合宿所での姿をカメラが追うカラーグラビアが巻頭を飾り、『週刊平凡』にはなんと高原で白馬にまたがるタツノリのグラビアが組まれた。東芝EMIからは、早くも応援歌『あこがれの辰徳お兄ちゃん』のレコードが発売。雑誌『セブンティーン』の読者投稿欄には、「12月1日、原辰徳さんの巨人軍入団の内定とともに、アンチ巨人だった私は、巨人ファンになった。なぜ原辰徳をセブンティーンにのっけないの」という富山の少女の声が掲載されている。

ドジャースのラソーダ監督[左]も原の実力を絶賛した


 年明けの多摩川グラウンドには1万人ものファンが詰めかけ、その異常とも言えるタツノリフィーバーに対応するため、球団は1981年シーズンから広報担当を3人に増員して臨んだ。三塁には中畑清がいたため、キャンプの第二クールで二塁起用が決定すると、原は「従来にない大型でホームランの打てるセカンドになろう」と慣れない二塁守備にも前向きに取り組んだ。宮崎キャンプの紅白戦では前年最多勝の江川卓から2本塁打と猛アピール。2月22日、オープン戦初戦の広島戦で、背番号8は「七番・二塁」で先発出場すると、ミーティングで「絶対に打たせるな」と意気込む広島投手陣の厳しい内角攻めにも怯まず、3打数2安打と上々のデビューを飾る。ベロビーチの三次キャンプで、その打撃を見たドジャースのラソーダ監督が「ウチにトレードしてくれないか」と真剣な顔で藤田監督に申し込むほどバットは好調で、帰国後初試合の日本ハム戦では工藤幹夫からホームランを放った。

「あいつ、本当、野球が好きなんだよね」


 開幕直前に新宿コマ劇場で行われた球団イベントで、歌手の松田聖子と原がお互いの日記を交換して読み合う“日記披露コーナー”で大テレの若大将は、ペナントレース開幕戦の中日戦に、「六番・二塁」でデビューを飾る。牛島和彦からプロ初安打を放ち、翌日には小松辰雄からプロ8打席目の初アーチを後楽園球場の右翼席へ。王貞治助監督を「すげえ男だな」と唸らせた。巨人は開幕4連勝を飾り、原は6試合連続安打で31年ぶりにセ・リーグ新人記録を更新したが、9試合で1打点と得点機で打てず、早くも「チャンスに弱い」という批判の声も聞こえてくる。それでも、7試合目からは早くも五番で起用され、打率3割台をキープ。4月22日の大洋戦では東海大の先輩・遠藤一彦から第3号サヨナラアーチを左翼席へ叩き込み、球団初の新人サヨナラ本塁打に北九州市営球場のグラウンドは、興奮した観客が乱入するお祭り騒ぎとなった。

 5月3日にはまたも原が阪神小林繁からサヨナラ安打を放ち、チームは5年ぶりの10連勝。次第に巨人は背番号8が中心のチームへと変貌していく。5月4日の阪神戦では中畑が二塁へのスライディングで左肩を負傷して途中交代、代わりに原が二塁から三塁の守備位置に就くと後楽園球場は大歓声に包まれた。誰もが背番号8に長嶋二世を夢見ていたのである。

 以降、二塁レギュラーにはヒットを量産した篠塚利夫が入り、復帰後の中畑は一塁へ回った。こうして80年代の巨人内野陣が定着していく。藤田巨人は27試合目に20勝到達と首位を快走。5月27日時点で原は打率.306、6本塁打、18打点、さらに勝利打点5のチーム四冠王の大活躍である。OBの青田昇のアドバイスを聞き入れ、投手の攻め方や打った球種やコースなどをノートにメモを取るようになったゴールデンルーキーの野球に取り組む姿勢を、牧野茂ヘッドコーチは絶賛している。

「あいつ、本当、野球が好きなんだよね。熱っぽいときが、これまで何回かあったんだけど、そのとき、“練習を休め、なんなら試合も休むか”って声かけると、目をつり上げて“反撃”してくるんだよ。“イエ、大丈夫です。やれます”って」(週刊ベースボール1981年6月15日号)

とどまるところを知らない原人気


オールスターでは西武・石毛[右]との“共演"が話題となった


 慣れない人工芝でのプレーに疲れが見え始めた6月、腰痛で4試合スタメン落ちを経験するも、7月14日の大洋戦では第10号本塁打を放ち、球団では長嶋以来23年ぶりの二桁アーチ到達となった。原人気はとどまることを知らず、オールスターファン投票では20万7955票を集め、三塁手部門で阪神の掛布雅之を4万票以上引き離してのトップ選出。二塁部門の7888票だけでなく、投手47票、捕手67票、外野手でも556票を集める、投票慣れしていない女性や子供のタツノリファンと思われるハガキも多かったという。西武の石毛宏典とのルーキー共演が話題になった夢の球宴では、「一番・遊撃」でスタメン出場すると、第二戦の5打席目に初安打を放った。

 そして、原はオールスター明け早々に早くも合宿所を出る。寮はデーゲーム中心の二軍選手の生活時間に合わせて館内放送が流れるため、どうしても朝早く目が覚めてしまい寝不足に悩まされ、夜はナイターから戻り食堂に残された冷えた夕食を取らなければならなかった。生活リズムの違いから球団も特例で新人の退寮を認め、原は相模原の自宅に戻り母の手料理を食べ、愛車のBMWで球場へ通った。それもやがて、王助監督直々の打撃指導に挑む背番号8が少しでも休めるようにと、岡島トレーナーの車に同乗するようになる。8月4日の中日戦では本塁クロスプレーで相手捕手と激突して左足むこう脛を打撲。翌日はホテルの部屋でテレビ観戦するしかなかったが、15日のヤクルト戦では14、15号を連発。8月18日の広島戦、球団4人目の新人100安打目を16号ソロで飾ると、さらに二塁打とプロ初の17号満塁アーチも飛び出して1試合7打点のワンマンショー。これには王助監督も「ロングヒッターとしての頭角を現してきた。いうことないね」と絶賛だ。

大手7社のCM起用


1年目から22本塁打を放ち優勝に貢献した


 江川卓と西本聖の両エースが最多勝争いをする巨人は独走態勢に入っており、ファンの興味は江川の20勝達成や原の打撃成績にあった。9月に入るとスランプで打率2割7分台にまで下がるも、13日のヤクルト戦で新人12年ぶりの20号アーチに到達。この試合でチームの優勝マジックは6となり、23日に2位広島が中日に敗れ、移動日に優勝が決まった。原は27日の中日戦で21、22号を連発。1年目を打率.268、22本塁打、67打点という成績で終え、日本ハムとの日本シリーズでも2本塁打を放ち、8年ぶりの日本一に貢献した。セ・リーグ新人王に輝くも、終盤の失速に「あとちょっと頑張ればいいのに。こんなに情けない思いは初めて」と若大将は満足することなく、2年目の飛躍を誓った。

 11月の日米野球では、1968年と74年の王に並ぶ、日本人選手最多タイの6本塁打を記録。オフのプロ野球オールスター歌の球宴では、松田聖子の横で「ボクの妹に」を歌い上げ、明治乳業や味の素ら大手7社のCMに起用され、契約料だけで計1億5000万円を超えると報じられた。東京郵政局の「年賀状はお早めに」キャンペーンのポスターにルーキーで異例の抜擢をされるなど、瞬く間に球界の顔となった原だったが、昭和の野球選手らしからぬ風貌と露出量を批判する論調の報道も目についた。その異常なアイドル人気と偉大なONとの比較で、四番打者・原は常に厳しい視線に晒されたが、実は背番号8が80年代に記録した274本塁打、767打点はセ・リーグトップである。

 そして、原が入団した1981年の週刊ベースボールは、新春特大号(1月5・12日合併号)、キャンプイン(2月16日号)、ペナント開幕(4月13日号)、前半戦終了(7月20日号)、オールスター戦(8月10日号)、シーズン総括(12月14日号)と節目の表紙はすべてタツノリが飾っている。巨人戦中継の年間平均視聴率も年々上昇し、背番号8がMVPに輝いた1983年には過去最高の27.1%にまで跳ね上がった。まさに原辰徳は、1980年代のプロ野球黄金時代の象徴になっていくのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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