手にバットが当たっても気にせず
2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。
書籍化の際の新たなる取材者は
吉田義男さん、
米田哲也さん、
権藤博さん、
王貞治さん、
辻恭彦さん、
若松勉さん、
真弓明信さん、
新井宏昌さん、
香坂英典さん、
栗山英樹さん、
大久保博元さん、
田口壮さん、
岩村明憲さんです。
今回は1983年、二度目の
ヤクルトコーチ時代の話です(一部略)。
1983年、
武上四郎監督の下、ヤクルトにヘッド兼打撃コーチとして復帰。義父の
三原脩に報告すると「球界にしっかり恩返ししなさいよ」と言われた。
4月に50歳となったが、やることは変わらない。自ら打撃投手を務め、トスを上げ、大きな声で励まし、大きな声で褒める。
八重樫幸雄、
杉村繁らが、かつての若松勉、
内田順三のように熱心に食らいつき、中西もまた同じようにともに汗を流した。
1984年、ドラフト外で入団してきた選手との出会いもあった。キャンプでほかの誰よりも中西の言葉を熱心に聞き、練習では必死に食らいついてきた無名の新人、のちの
日本ハム、そして第5回WBC日本代表監督となる栗山英樹である。
「僕はテスト生で入った人間ですが、ドラフト1位で入った選手と同じように接してくれました。プロの世界では、これが難しいことなんです。中西さんは僕みたいなダメな人間にも愛情を注いでくれ、すべての選手をなんとかしようとしてくれようとした指導者です」
先入観なく、その選手と向き合えるということだろう。
栗山は、こうも話している。
「中西さんが小川(
小川淳司)さん(現ヤクルトGM)によくティーを上げられていた。そうすると、小川さんをなんとかしようという熱い思いから、中西さんがどんどん小川さんに近づいていくんですよ。危ない、これ絶対ぶつかるよなと思ったら、中西さんの手を小川さんがパチンと打った。それでもまったくひるまない。よし、いいぞ、来い! って。
そのとき思ったのは、人が育つというのは愛情しかないんだってことです。勉強では知っていましたよ。頭のなかでは、そういう情熱が大事だってことは分かっていた。でも、プロ野球の伝説の選手だった中西さんがここまでやるんだという。それが僕の原点にあるんです」
しかし、2人のドラマは本格的なスタートを切る前に終わる。
同年途中、成績不振で武上監督が休養。やむなく再び監督代行となった中西だが、5月24日、18試合を指揮しただけで健康上の理由から退団してしまった。
実際には早実から入団した人気者、高卒2年目の
荒木大輔の起用についての確執からだった。話題づくりのためにもどんどん一軍で使ってくれという球団の指示に対し、「まだ早い。焦っても本人のためにならん」と拒否。
それが通らなかったことですぱっと辞めた。球団は慰留したようだが、翻意はしなかった。
こうと決めたら変えぬ頑固さもまた、中西らしさである。
栗山はその後、俊足外野手として1986年にブレーク。1989年にはゴールデン・グラブ賞にも輝いている。中西は「足が速い、いい選手だったね。打者としては若松君のようなタイプで若松君より器用だった」と言っていた。
しかしメニエール病のため、1990年限りで引退。まだ29歳だった。
中西がそのとき栗山を叱った話は、いずれまた。