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【偲び・語る会】渡邉泰輔(慶應義塾高-慶大-南海)さんが多くの人に慕われた理由

 

県大会決勝敗退後の行動


渡邉泰輔さんの遺影と慶大時代の投球シーン。多くの人の記憶に刻まれる名投手だった[写真=BBM]


 渡邉泰輔さんの人柄を表すエピソードがある。

 さかのぼること66年前、1960年夏の神奈川大会決勝だ。慶應義塾高の本格派右腕は当時「高校ナンバーワン投手」と言われていた。同春のセンバツで8強進出。2季連続甲子園まであと1勝で迎えた法政二高とのファイナルを、延長11回の末に惜敗(2対6)した。

 生前、渡邉さんから聞いた話によれば試合後、主将・丸山武三さんとともに、試合会場から引き揚げる法政二高のバスまで足を伸ばした。「頑張れよ!!」。エールを送った。なかなかできない行動だが、それを自然にやれる。さらには、こうも語る器の大きさがあった。

「我々に勝った法政二高が全国制覇するわけですから、それはもう、うれしかったです」。18歳の高校生である。正直な思いも回顧した。「ただ、一方ではうらやましいなとも思いました」。

 2023年夏の甲子園、慶應義塾高は107年ぶり2度目の全国制覇を遂げた。同年12月、渡邉さんが生まれ育った福岡県直方市内にある自宅でインタビューした。高校時代の思い出を懐かしそうに語るとともに、後輩の快挙を心の底から喜んでいた。取材から13日後(12月21日)、長女・有理さんから突然の電話が入った。20日に体調が急変し、亡くなられたとの訃報。81歳だった。言葉が出なかった。

 長女・有理さんによれば「最後の取材でした。母から聞きましたが、父は高校時代の話ができ、喜んでいたそうです」。8年前の2015年、慶大時代の完全試合(1964年秋、立大2回戦)の思い出話を聞いて以来2回目のインタビュー。自らまとめたという新聞スクラップや、テレビ中継の音源など、豊富な資料を基に、丁寧に応じてくれた。マメな性格。誰からも慕われる実直な人間性がにじみ出ていた。

学生監督が率いた1960年春


1960年夏の神奈川大会決勝で対戦した法政二高の2年生エース・柴田氏は66年前の思い出を語った[写真=BBM]


 昨年12月に三回忌を終え、1月27日に東京都内のホテルで「渡邉泰輔君を偲び・語る会」が行われた。渡邉さんと同級生だった当時の主将・丸山さんのほか日吉倶楽部(慶應義塾高野球部OB会)、慶應義塾高同窓会の有志が発起人となり、生前に親交のあった関係者など、約100人が出席した。

 献杯の後、トップバッターでスピーチしたのは60年夏の神奈川大会決勝で投げ合った法政二高の2年生エース・柴田勲氏(元巨人)だった。「雲の上の存在。あくまでも私の視点ですが、過去の甲子園で逸材と呼ぶ3投手がいるんです。1人目は江川卓(作新学院高)、2人目は渡邉泰輔さん、3人目は尾崎行雄(浪商高)。甲子園でも運よく勝たせていただき、のちにプロでもやっていけると自信をつけさせてくれたのは渡邉さん。間違いなく基盤を作ってくれたのは渡邉さんで、渡邉さんがいなければ、今の私はありません」。柴田氏は巨人と南海(渡邉さんは在籍8年で通算54勝)が対戦した日本シリーズの経験談を含め、約20分にわたり、かつてのライバルを偲んだ。法政二高OBでは、渡邉さんと南海で一緒にプレーした村上雅則氏も出席し「本当に良い人でした。忘れることはありません」と感謝の言葉を並べた。

 渡邉さんが在籍した当時の慶應義塾高は、慶大の学生が監督を務めていた。母校を指揮していたのは大学3年生・鶴岡伸彦氏。渡邉さんは「兄貴から教わっているような感覚です。野球部の事情もよく分かっていますから、風通しの良い雰囲気でした」と回顧していた。鶴岡さんも、66年前の記憶が鮮明である。

「真上から剛速球。インコース、アウトコースも関係ない。大雑把な形で2年秋の関東大会では3試合で53奪三振。監督としてやることはなかった(苦笑)。主将の丸山からは『監督ほど、ヒマな監督もいませんよ』と言われましたが、甲子園で勝てるチームをつくりたかったんです。私は偶然にも56年夏の甲子園に出場しましたが1回戦負け。どうしたら勝てるか。走って、走って、走りまくる。下半身をいかに強くするか。逆に言うと、それしか能がなかったんじゃないかと。監督としての知識だとか、そういうものはありませんでしたから。何しろ、走らせて下半身が強くなった。泰輔がまず走ってくれた。あの頃の選手は皆、足腰だけは強かったと思います。作戦も何もない。すべての試合で渡邉が1点以内に抑えてくれる。そういう時の監督です」

完全試合よりチームの勝利


 慶應義塾高は1962年夏を最後に甲子園から遠ざかった。復活出場は2005年春。45年ぶりに春のセンバツへと導いた上田誠前監督は言った。

「2年生・佐藤友亮(西武コーチ)がいた1995年夏、神奈川大会で決勝進出したんですが、日大藤沢高に負け、非常に悔しい思いをしたんです。その夜に泰輔さんから初めてお電話をいただいて『よく頑張った。これであきらめずに甲子園に連れて行ってくれ』と言われたんですが、そこから(復活出場は)10年も経過してしまいました。その間、お電話をいただいて、四国で合宿を開催した際にも来ていただき、ピッチャーを見ていただいたりすることもありました。本当に45年ぶりに甲子園に出られたのは、泰輔さんの優しい人柄と、ご指導があったおかげだと思います」

 上田監督とコンビを組んだ七條義夫前部長は歴史に造詣が深く、エピソードを披露した。

「泰輔さんが六大学野球で初めて完全試合を成し遂げたのは、1964年5月17日の立教2回戦。1対0の9回表に二塁打を打ったときに、全力で走ったという記録が残っていました。追加点は奪えず、その裏を3人で抑え、完全試合を成し遂げるんですが、無理をしなくてもいい場面でした。記者から『あの時(9回表の打席)は完全試合を意識しなかったのか』という質問に対し『意識していても、勝利がまず最優先です』と、答えた事実が残っていまして、すごい人だなと思ったんです。その後、さらに言葉が続いて『この完全試合は、皆が守ってくれたからだ』と振り返り、自分のピッチングに関してはほとんどしゃべっていないんです。そういう謙虚な、渡邉泰輔さんを慶應の選手の見本として、そういう学生を育成していけたらなと思っています」

 2015年のインタビューで「私の名前だけが残っていますが、慶應野球部全体の誇り、記録だと思う」と語っている。いかにも、渡邉さんらしいコメントだ。

 恩師でもある上田前監督を、2015年8月から引き継いだ森林貴彦監督は23年夏の甲子園で1916年以来、深紅の大優勝旗を手にした。

「私が監督になってから初めて甲子園に行ったのが18年春だったんですが、大阪での練習会場で激励に来ていただきました。それから5年後の23年夏はご自宅にいらっしゃったと思うんですが、(主将の)丸山さんが何度か電話でつないでいただきまして、激励をしていただきました。今、私が思っている本音を2つ。1つ目は渡邉泰輔さんの球を見てみたかったです。先ほども江川さん、渡邉泰輔さん、尾崎行雄さんという名前が出てきて、とんでもない球を投げる方だとは思うんです。こういう話はどんどん伝説になって『誰もかすらなかった』とか、『もう170キロは出ていただろう』とか、そんな話がよく出るんですが、叶わないことであるとは理解していても、本当その球を、見てみたかったなというのが一つです。もう一つの本音は、そんなピッチャーが欲しいということです。やっぱりピッチャーがいないと、なかなか野球は成り立たない。もちろん今いる現有勢力で頑張っておりますが、そんなピッチャーとの出会いがまたあるといいなと思っております。今のチームで精いっぱいピッチャーを育て、いい野球をすることで、また慶應義塾高校、慶應義塾大学でやりたいという、全国でそういう思いを持つ若い人たちが増えると思います。そういう出会いを増やすためにも、一つひとつの現場で指導を頑張ってまいりますので、皆様、引き続きご指導、応援をよろしくお願いいたします」

自宅で見せた素顔


渡邉さんが慶應義塾高でエースだった当時の主将・三塁手の丸山氏が発起人を務めた[写真=BBM]


 2019年12月から母校・慶大を指揮する堀井哲也監督も、刺激を受けた様子だった。

「前任が社会人野球のJR東日本というチームでやったんですけども2011年、都市対抗決勝で勝たせていただいたときに、1週間ぐらいしたら家に、渡邉泰輔さんから、達筆な手紙が届きました。関係がここでつながったというか。名もない後輩であり、泰輔さんから見れば、社会人野球というゆかりもないチームの後輩でも、見てくれている。 決勝の継投のことがつらつらと書いてありまして、今後、こういうことを頑張っていけば、もっといいチームになる、と。 3、4枚の便せんに書かれていました 。その後、慶應義塾のほうに来たんですけど、特に投手育成については、本当に細かに、いろいろなポイントを教えていただきました。先ほどの上田さん、森林さんの話につながりますけども、突然ですね、そういう後輩、こちらから見たら雲の上の大先輩なんですけども、後輩をそういうふうに思ってくれているということに感激し、感謝しております。先ほど、開会前にいろいろと写真を見たんですけど、優勝シーンでの泰輔さんの笑顔はいいものだな、と。(慶大は昨秋まで) 2 年間、苦しんでおりますので、何としても今年は、この会にちなんでじゃないですけど、優勝できるよう頑張っていきたいと思います」

 バトンは先輩から後輩へつながれる。つい先日、カブスとマイナー契約を結んだ常松広太郎(4年・慶応湘南藤沢高)は決意を語った。

「堀井監督が現役中におっしゃっていたのが、渡邉泰輔さんをはじめ、慶應の野球部の先輩方が、野球界でさまざまな功績を築かれ、道を切り拓いてもらって、いま、僕たちがいるということを、何度も聞きました。僕自身もこういった挑戦をすることで、僕よりも下の世代の慶應の選手たちが、そういった選択肢もあるんだと、夢を持っていいんだ、というふうに思えるように、僕自身がいろいろな道に進めるような活躍を、頑張って実践することで見せていきたいと思っています」

 多くのスピーチを経て家族を代表して長女・有理さん、次女・真子さんが感謝を述べた。

「父は家ではわりと口数は少なくて、物静かな人でした。一緒にテレビで野球を見ながら話すことがあっても、自分の野球のことを話すことは、そんなにありませんでした。父が亡くなって2年、皆様から高校、大学、プロというそれぞれの時代の話を聞く機会があり、周りの方に恵まれて楽しい野球人生を送ってきたのだなと改めて思いました。生前は親しくしていただきましたこと、本当に感謝しております。今後も皆さんでお集まりのときや、野球の話をしたときなど、渡邉泰輔のことを思い出していただけますと幸いです」

 最後に応援歌・若き血を手拍子で2回、出席者全員で高らかに歌った。同窓会メンバーとして出席した應援指導部リーダー部OBが、見事な応援指揮を披露した。「いいぞ、いいぞ、泰輔」「ガンバレ、ガンバレ、常松」のエールで、閉会となった。発起人の中心として準備を進めた主将・丸山さんは「良い会だった。泰輔も喜んでくれていると思います」と、ありし日の旧友を思い起こし、目頭を熱くさせていた。

取材・文=岡本朋祐
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