どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 巨人逆指名を選んだ理由
「最後の最後まで迷ったのは、
オリックスはこれからの若いチームで、試合に出ている人が年齢的に近いこともあって、一緒になってチームを作っていけるかな、というところに魅力を感じたんですよね」(週刊ベースボール1995年12月4日号)
アマ球界No.1内野手と称された
仁志敏久は、プロ入り時にオリックスと巨人のどちらを逆指名するか迷いに迷ったという。当時、オリックスは
イチローを中心に1995年シーズンに初優勝を飾った新興チームで、巨人は大型補強時代真っ只中のベテラン揃いのチームだった。だが、仁志は子供の頃からの憧れのチームでもあった巨人を選択するのだ。仁志少年は、雑誌の
原辰徳サイン入りバット懸賞企画に応募するほどの熱烈なタツノリファンだった。そして、少年は大人になり、95年限りで現役引退した原の背番号8を継承することになる。
甲子園に出場した常総学院時代からショートを守り、早大進学後も2年時に遊撃レギュラーに定着。身長171cmと小柄だったが(ドラフト時の公称は173cm)、主将を務めた4年時には、東京六大学タイ記録のシーズン6本塁打をマークするパンチ力の持ち主だった。日本生命に入社後も日本代表の「三番・三塁」を任され、アトランタオ
リンピック出場の夢はあったが、24歳の年齢を考えたら今がプロ入りのタイミングだと思ったという。
不振でもコーチが起用を進言

巨人には逆指名で入団した[前列左から2人目が仁志]
1996年の春季キャンプで、仁志のシュアな打撃を見た
長嶋茂雄監督が「イチロー的かな」と絶賛すると、「じゃあ、さしずめ“ニシロー”ですかね」なんて笑ってみせる。マスコミへのリップサービスが誤解され、「ビッグマウス」と言われたが、プロレス好きの仁志には、ありきたりの受け答えをしてもつまらないというプロ意識があった。初打席には、憧れの原から譲り受けたバットで立ちたいとドラフト前に宣言していたが、プロ入り後は「もう夢を語っている場合じゃない。いくら新人と言っても、野球の素人じゃない」と臨戦態勢で開幕を迎える。

開幕戦にスタメンで出場。勝利に貢献して斎藤雅樹[左]とお立ち台に上がった
4月5日の
阪神戦、球団では1981年の原以来、15年ぶりの新人開幕スタメン出場の快挙だ。「一番・二塁」の仁志は、初回に
藪恵一の投じた145キロの速球をセンター前に弾き返し、第2打席でも安打で出塁すると、果敢にノーサインで二盗を決める。大砲タイプが並ぶ巨人打線において、スピード&チャージの申し子として存在感を見せた新リードオフマンは、5打数3安打とセ・リーグでは38年ぶりの新人開幕猛打賞で飾った。試合後は完封勝利の斎藤雅樹とともに東京ドームのお立ち台に呼ばれ、翌日のスポーツ新聞一面は4紙が即戦力ルーキー仁志を大々的に報じた。
しかし、その後は快音が聞かれず、開幕5戦目には早くもスタメン落ち。だが、首脳陣は、おとなしいタイプが多い若手選手の中で、異端ともいえる闘志と感情を前面に出す仁志のプレースタイルを高く評価していた。
土井正三守備コーチにマンツーマンで指導を受け、打撃コーチの
武上四郎はルーキーの向こうっ気の強さを買い、不振でスタメンを外れた試合でも、「監督、仁志を使ってやってください」と長嶋監督に起用を進言したという。
「バットはぶん投げる、ヘルメットは叩きつける。今思えばとんでもないルーキーです。しかし、長嶋監督はこれを止めようとは一度もしなかった。むしろ面白いやつだと思っていたようで、周囲の人たち、よくその旨の話を聞いたことがあります。それまでのジャイアンツにはいないタイプだったようで、何も言わず、目の前に転がった私のヘルメットを拾っていただいたこともありました」(プロフェッショナル/仁志敏久/祥伝社新書)
トップバッターで勝利を呼ぶ
いつの時代も、新人が活躍するにはチーム内の出会いや運も左右する。この年の巨人は三塁候補に、新外国人選手の
ジェフ・マントを獲得していたが、開幕から絶不調。出場10試合で27打数3安打の打率.111、1打点、本塁打なしという低調な成績に終わり、4月23日に遠征先の宿舎で監督に呼び出され、早くも解雇された。
吉岡雄二や
長嶋一茂も結果を残せず、5月19日の
ヤクルト戦から、仁志が「一番・三塁」で起用されるようになる。前日に2三振を喫していた仁志は、これがラストチャンスだと感じていたという。
のちに「FAで選手を獲り出した頃のジャイアンツだったので、四番打者ばっかりで内野がいなかったんです。僕なんかのタイプでサードを守るなんていうのは、普通はあるわけないんですよ」と駆け出しの時代を振り返る仁志だったが、この試合でマルチ安打を記録してチャンスをものにすると、以降トップバッターに定着する。
この年の巨人は開幕ダッシュに失敗して、4月終了時に1位横浜に7ゲーム差をつけられ5位。新外国人右腕
バルビーノ・ガルベスの活躍で巻き返すも、6月にはまたも失速して7月6日時点で首位
広島と11.5ゲーム差をつけられた。だが、
松井秀喜の復調に加えて、横浜の大魔神・
佐々木主浩から逆転3ランを放った仁志や、打率3割台をマークするドラフト3位外野手の
清水隆行ら若い選手の活躍もあり、首位を猛追していく。7月9日の札幌丸山球場での広島戦、2回二死走者なしから9者連続安打で一挙7点を奪う猛攻で勝利して勢いに乗ると、7月16日の
中日戦開始前、長嶋監督は報道陣に向かって高らかに、「松井が40本打つようならミラクルが起こる。2年越しの“メークドラマ”が実現するでしょう」と宣言する。

8月16日のヤクルト戦では初のサヨナラ本塁打を放った
背番号8は8月16日のヤクルト戦で延長12回、プロ初のサヨナラアーチを放つなど、新人ながら8月19勝7敗の長嶋巨人のトップバッターとしてチームを勢いづける。最終的に逆転優勝を飾る長嶋巨人において、仁志は114試合で109安打を放ち、打率.270、7本塁打、24打点、17盗塁という成績を残した。
「長嶋さんの言葉に救われた」

トップバッターとして逆転優勝に貢献して新人王も獲得した[右は日本ハム・金子誠]
意外なことにのちに二塁で4年連続ゴールデン・グラブ賞を受賞する守備の名手も、プロ1年目は守備を苦手としていた。6月15日の阪神戦では、1対1で迎えた同点の延長13回裏、サードゴロを三塁・仁志が
トンネルしてチームはサヨナラ負け。普段は強気な仁志もさすがに落ち込み、その夜は宿舎の自室から出る気もしなかったという。
「すると監督付マネージャーが部屋に来て、『仁志、監督の部屋へ行け』と言われたんです。内心では叱られると覚悟したんですけど、逆でした。『気にしちゃダメだぞ。明日からまた元気を出してやれ。俺だって失敗なんかいっぱいやってんだから』と励ましてくれて。その日は食事もノドを通らないほどでしたが、長嶋さんの言葉に救われました」(ベースボールマガジン2025年8月号 1993-2001 第2次長嶋巨人、ドラマチック伝説)
ときにナイター中継のテレビ視聴率が40%台を記録する、戦後最大のスーパースターが率いる「1990年代の長嶋巨人」は、長いプロ野球史で最もメディアから取り上げられたチームといっても過言ではない。そういう日本中から注目を集めた環境で、プロ1年目の仁志敏久は、新人王に輝き、見事に重責を果たしたのである。
文=中溝康隆 写真=BBM