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プロ1年目物語

【プロ1年目物語/小久保裕紀編】「プロ野球はダイエーが先頭に立ってリードする」 チームの未来に懸けた己の野球人生

 

どんな名選手や大御所監督にもプロの世界での「始まりの1年」がある。鮮烈デビューを飾った者、プロの壁にぶつかり苦戦をした者、低評価をはね返した苦労人まで――。まだ何者でもなかった男たちの駆け出しの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

逆指名2位でダイエー入団


ダイエー1年目の小久保


 1993年は、ダイエーホークスにとって転換期となった。春には日本初の開閉式球場・福岡ドームが開場し、246万2000人というパ・リーグのシーズン最多観客動員を記録。ペナントレースでは最下位に終わったが、オフには西武との3対3の大型トレードで地元九州のスター秋山幸二を入団させると、さらにはこの年から導入されたFA制度では松永浩美(阪神)を獲得する。そして、逆指名ドラフト元年の目玉選手、学生で唯一のバルセロナ五輪代表に選出された強打の内野手、小久保裕紀(青学大)の逆指名を取り付けることに成功した。

「小さい頃は巨人ファンで、巨人かダイエーかで最後の最後まで迷っていたんですよ。ダイエーに決めた一番の理由は、中内功オーナーをはじめ組織の熱意を感じたからです。福岡ドームという箱は造ったが中身が足りない、と。その中身をこれから充実させていかないといけないから、一番手として来てくれというお誘いをいただいたんです」(ベースボールマガジン2020年11月号 1989-2004福岡ダイエーホークス王道伝説)

 小久保がそう振り返るように、新生ホークスは将来のリーダーとなり得る人材を欲していた。指名順こそ2位だったが、1位の渡辺秀一(神奈川大)を5000万円も上回るプロ野球史上最高額の契約金1億8000万円に加えて、球団は親族にも猛アピールしてダイエーのスーパーの中に入る薬局の権利を譲渡するなど、まさにグループをあげての小久保獲得作戦だった。福岡行きの意志を固めた時、「名を売るならやっぱり東京でなきゃあかん」いう人もいたが、「地方を重視しているところが評価されているJリーグに負けないよう、プロ野球はダイエーが先頭立ってリードする」と小久保は、チームの未来に己の野球人生を懸けた。

ダイエー入団会見。左から2番目が小久保だ


 背番号9を与えられたルーキー小久保は前年夏に左すねを骨折していたが、三塁にはFAで獲得したベテランの松永浩美がいたため、キャンプでは外野でもノックを受けた。オープン戦でアマチュア時代にほとんどやったことがなかった送りバントを失敗して、チームが練習休みの日に西戸崎室内練習場で1時間にわたりバント練習に取り組んだこともある。代表取締役専務兼監督を務めた根本陸夫の方針で一軍帯同を続け、投手の攻め方や球種をこまめにノートに記録。オープン戦打率.258ながら、新人王にあたる「サッポロビール・フレッシュ・マン大賞」を受賞して、賞金20万円を贈られた。

イップスにも悩まされて


 迎えた94年4月9日、小久保はオリックスとの開幕戦に「六番・右翼」でスタメン出場するも、6打数無安打という散々なプロ生活のスタートとなる。翌日、野田浩司からプロ初安打となる二塁打を放ったが、レギュラー定着はできず、開幕から西武と首位争いをする好調なチームにおいてベンチを温める日が続く。待望のプロ初アーチは、開幕から3ヶ月近く過ぎた7月5日のロッテ戦、園川一美のスライダーを北九州市民球場の左翼席へ運んだ。この日、3打点を挙げた小久保はプロ初のお立ち台へ。だが、試合後、ある先輩から「おい、ルーキー。ヒーローインタビューで両手を上げるのはまだ早い。片手にしておけ」と注意を受けた。平成前半、球界にはまだ昭和の殺伐さが色濃く残っていた。現役引退後に出した著書の中で、小久保はプロ1年目にイップスに悩まされたことを告白している。

7月5日のロッテ戦でプロ初のヒーローインタビューを受けた


「私の足を引っ張ったのはスローイングです。ゲーム中のスローイングミスはほとんどなかったのが救いですが、イニングの合間に行うボール回しで、セカンドの私がサードの松永浩美さんやショートの浜名千広さんに高く抜けたボールを投げ、あちらこちらへボールが行き、迷惑をかけました。小学生の子供でもできることが、プロである自分にできず恥ずかしくてなりません」(一瞬に生きる/小久保裕紀/小学館)

 年下の選手には普通に投げられるのに、先輩相手だと緊張してコントロールできなくなる。今ではソフトバンクホークスを率いる小久保監督にも、そんな下積み時代があったのだ。試合前にコーチ相手にひたすらキャッチボールを繰り返して、なんとかそれなりに投げるコツを掴むのに二ヶ月近くかかったという。そんな苦悩の日々の中で、夏場になるとようやくバットで存在をアピールする。8月23日、山形での日本ハム戦ではプロ初の2打席連続本塁打を含む3安打4打点。26、27日のロッテ戦ではこちらも自身初の2試合連続アーチとなる5号、6号を放った。8月だけで5本塁打を記録してみせるのだ。

ハワイでは二塁手としてプレー


 シーズン前に目標を聞かれると、「打率.270」と口にしていたが、1年目の最終成績は78試合で打率.215、6本塁打、20打点と目標には程遠かった。根本監督は「キャンプから、セカンドの練習もさせていれば、(故障の)湯上谷の抜けたセカンドでもっと、出番が増えていたはず。もったいないことをした」と悔やんだが、その反省は秋に派遣されたハワイ・ウインター・リーグで生きる。内野手が4人しかいないチームで、小久保は二塁手として全試合スタメン起用される。

「日本の若手選手が球団の枠を超えてハワイで50試合やったんですけど、そこでセカンドを守らせてもらったんです。当時のダイエーのレギュラーはサード松永さん、ショート浜名さん、ファースト外国人、外野は秋山さんを筆頭に全部埋まっていた。僕が狙えるのはセカンドしかなかったので、経験のなかったセカンドを50試合守らせてもらったのは大きかったです」(ベースボールマガジン2020年11月号 1989-2004福岡ダイエーホークス王道伝説)

オフのウインター・リーグでは二塁を守った


 小久保は約二ヶ月間に及んだウインター・リーグで、打率.370をマークして首位打者と打点王、そしてMVPを獲得。現地では翌年からダイエーの監督に就任する王貞治の激励を受け、自チームのカウアイ・エメラルズが優勝マジック1で迎えた、その御前試合で決勝ホームランも放った。大きな自信と手応えを得て帰国した小久保は、翌95年には28本塁打を放ち、パ・リーグ本塁打王に輝くのだ。

 王監督は就任後、3年連続Bクラスに低迷するも、球界の寝業師・根本がフロント業務に専念したダイエーは、城島健司(別府大付高)、井口忠仁(青学大)、松中信彦(新日鉄君津)らアマ球界の逸材たちを立て続けに獲得する。チームが勝てない時期、ロッカールームで王采配を批判しているベテラン選手もいたが、西武黄金時代を知る秋山幸二はその輪に加わることはなく、黙々と自分のプレーをし続けた。若手選手たちはそんな秋山を慕い、背番号1の背中を追うようになる。そして、1999年には、彼ら“王チルドレン”を中心にダイエーが初の日本一に輝くのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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