史上初のナイトゲーム開催

乾杯の音頭は野球部6校の主将、副将が務めた(左から慶大・印出主将、法大・小田弘昭主将、立大・伊藤清春副将、早大・鈴木浩文主将、明大・古沢主将、東大・今西信隆主将
1992年にオーバーラップした。2月28日、東京都内のホテルで「神宮に響け 六旗の絆! 東六93Reunion」が開催された。平成元年の89年に入学し、93年3月に卒業した東京六大学の野球部、応援団・応援部・應援指導部の同窓会。神宮球場でしのぎを削った34年前のメンバー79人が旧交を温めた。
学生時代の思い出話に花を咲かせる場で、歴史と伝統を振り返る「気づき」があった。
92年の東京六大学リーグ戦は、春は明大、秋は慶大が制した。同年は神宮球場を本拠地とする
ヤクルトが、14年ぶりのセ・リーグ制覇。東京六大学と日本シリーズ(対
西武)の試合日程が重複した。当時の日本シリーズは、デーゲーム開催。阪急と対戦した78年、ヤクルトのホームゲームは後楽園球場にて代替開催された。92年の神宮は昼夜併用に。デーゲームで日本シリーズ、東京六大学の第7週は史上初めてナイトゲームで行われたのである。
2026年、明治神宮野球場は創建100周年。この年に「歴史」が大きく動いたわけである。過去をさかのぼれば、神宮球場の使用の優先権は東京六大学にある。東京六大学野球連盟のホームページにはこう記載されている。
「大正15年(1926年)には本連盟の協力のもと、明治神宮野球場が完成」
同連盟が建設費用の一部を補ったのである。東京六大学は当時、早慶戦をはじめ、絶大な集客力があった。収容数を増やすために31年、スタンドを拡張した際にも、同連盟が工事費を負担。プロ野球は62年から東映フライヤーズ(現
日本ハム)が使用を開始し、64年からは、国鉄スワローズ(現ヤクルト)が、現在まで本拠地としている。つまり、学生よりも、プロは後発だった。建設の経緯、そして長年の伝統から、神宮は「東京六大学の本拠地」「学生野球の聖地」として浸透。時代は流れ、プロと学生は「共存共栄」の関係性に雪解け。球場使用についても双方による協議の上、より良い形で運営されるようになったのだ。
勇気を与えた「二浪三羽ガラス」

4年生だった1992年秋は慶大が優勝。「二浪三羽ガラス」と言われた最上級生3人がチームをけん引した(左から赤池二塁手、印出遊撃手、古葉外野手
前置きが長くなった。パーティー冒頭の乾杯の音頭は、6校の主将・副将が壇上に上がった。代表して慶大でキャプテンナンバー「10」を着けた印出順彦主将(土浦日大高、東芝元監督)があいさつした。
「卒業して33年。本当にあっという間です。年代的には、息子さん、娘さんが大学に入って活躍している人もいるでしょうし、六大学の何かに関わっている人もいると思います。 そういった中で、我々も六大学の同じ空間、同じ時間を過ごしたその経験を、次の世代に伝えていきたいと思います。こういった会をきっかけに、また進めさせてもらえればなと思っています。由緒ある神宮という舞台を通じて、同じ時間を過ごした皆さんと、思い出話を花咲かせる良い時間を過ごさせてもらえることを感謝したいと思います」
印出主将がけん引した92年秋、慶大は東京六大学を制すると、明治神宮大会でも優勝した。慶大の伝統と言えば「たたき上げ」。スポーツ推薦がなく、さまざまな入試ルートから入学してきた部員が、切磋琢磨する文化が定着している。遊撃手の印出主将、二塁手の赤池行平(長野高)、外野手の古葉隆明(
広島城北高)は2年の浪人生活を経て、慶應の門をたたいた苦労人。この「二浪三羽ガラス」が中心選手として天皇杯を奪還したのは、大きな意義があった。文武両道を追求する全国の高校生に「俺たちも、やれる!!」と勇気を与えたからである。
最高学府・東大は言うまでもなく、慶大のほか、当時は早大、立大もスポーツに特化した入試システムが確立されておらず、入学難の時代だった。ただ、高校時代に甲子園出場などの目立った実績がなくても、大学入学後の努力・工夫次第で、チャンスは広がる。スポーツ推薦組が大挙入学していた法大、明大に真っ向から勝負を挑み、この2強を打ち破ったのが「陸の王者・慶應」だったのである。慶大、早大、立大はこうした浪人組を含む一般入試、指定校推薦のほか、付属校、系属校、一貫教育校の出身者が活躍する土壌がある、古き良き時代だった。東大は今も昔も、最難関の入試を突破した学生たちが、果敢に挑戦し続けている。
55歳、ダイヤモンド一周の立ち位置

最後に集合写真に79人の出席者が収まった[写真=BBM]
さて、92年春のリーグ戦を制した明大・
古沢淳主将(九州学院高、元ヤクルト)は言う。
「明治で学んだことはもう、今の人生のすべて。僕の人生、すべてが明治です」
明治大学野球部と言えば、計37年、母校を率いた島岡吉郎元監督が掲げた「人間力野球」が指針として根づく。卒業生には「昭和の精神論」がたたき込まれている。島岡御大は古沢主将が入学する前年、体調不良により88年秋限りで退任。総監督に就任したが、1989年4月11日に他界した。春季リーグ戦開幕直後のことである。島岡御大のイズムを継いだ別府隆彦監督は、2010年2月に死去した。
「これからも人間力、魂だけは、ずっと持ち続けていきたいと思います」(古沢主将)
あらためて時代の流れを感じた。明大・島岡監督、早大・石井連藏監督、慶大・前田祐吉監督、法大・山本泰監督は、この日の同窓会を天国から温かく見守っていたに違いない。
約2時間30分。表にはできない裏話、暴露話、爆笑話が尽きることはなかった。六旗の下で戦ったかつての仲間たちがパーティーの題目のごとく、絆を深めた。最後に幹事役の慶大・松本治(太田高)があいさつした。
「僕ら55歳というのは、ダイヤモンド1周を人生80年に例えるならば、二塁から三塁に向かうあたりを走っているわけです。ホームも見えている状況かと思います。そこで、私たちの年代で何ができるのかと言えば、これまでやってきたことを、次世代につなげる立場じゃないかなと思っております。 六大学というのは、素晴らしい絆だと思うので、ぜひ今日を機会にキックオフとして、どんどん輪を広げていきたいと思っております」
その場限りの楽しい時間だけでは終わらせない。各校のOB・OG会とは、親睦を深めるのと同時に、現役学生の活動を支援、サポートする役割もある。昨年、東京六大学野球連盟は結成100周年を迎えた。同連盟・長船騏郎事務局長は生前に「学生スポーツとは、卒業生が育てていくものです」と語っていた。各学年の横のつながりだけではなく、世代を超越した縦のつながりも強固に、歴史と伝統を継承する。決意表明の場となった。
取材・文=岡本朋祐