最後の取材

書籍表紙
1936年1月23日、大阪阪急野球協会(阪急軍)が発足。同年7球団でスタートした日本プロ野球初の公式戦におけるオリジナルメンバーである。
ただし、その歩みは決して順風満帆ではなかった。1リーグ時代は一度も優勝はなく、戦後はBクラスが定位置となった。1950年の2リーグ分立後も低迷は続き、観客動員もリーグ最下位がほとんどだった。
辛うじて免れていた最下位になったのが、1963年だ。指揮を執ったのが、新監督の
西本幸雄である。西本監督が阪急を率い、まさにどん底から黄金時代を築き上げた11年間を綴る書籍「阪急ブレーブス 闘将の黄金時代 西本幸雄と勇者たちの群像」から、1972年に東映から移籍してきた
大橋穣の逸話を抜粋して紹介する(複数回の最終回)。
◎
2025年7月3日、大橋には東京の自宅で話を聞いた。「上田阪急」の印象が強かったので、当初は次回に登場いただくつもりで、もう少しあとに取材する予定だった。気が変わったのは、その前に取材した
足立光宏の言葉からだ。
「大橋は取材したんですか。あいつも西本さんとやってますよ」
伝えると、「お元気そうで何よりです。足立さんのときは守っていて楽しかったな。コントロールがいいから打球方向を読みやすい。いいプレーができたと思います。足立さんも分かっていてくれたんでしょう。僕と(捕手の)
中沢伸二で、ごちそうしてもらったことがあります」。
東京出身。日大三高から亜大に進み、
山田久志、
福本豊、
加藤秀司(英司)と同じ1968年秋のドラフト1位での東映入りだった。当時の東都大学リーグの最多記録通算20本塁打をマークし、強打の遊撃手と鳴り物入りの入団だ。
「小さいころから野球が好きで、
巨人ファンでした。ポジションは中学からずっとショートです。
広岡達朗さん(巨人)のファンだったんですよ。当時はショートと言えば、
吉田義男さん(
阪神)と広岡さん、古いと
苅田久徳さん(東京セネタースほか)もおられましたが、私は苅田さんは見ていません。
それでね、まったく悪気はないんですが、『吉田さんより広岡さんが好きです』と言っちゃったことがある。それから吉田さん、私のことは、よく言わなかったですね」
広岡を好きだったのは、巨人ファンだったことに加え、スローイングがある。捕ると投げるが一体化した吉田のプレーは華麗だったが、捕球する相手野手のタイミングをあまり考えていないようにも見えた。対して広岡は相手に合わせ、絶妙に強弱をつけた。
「やはりアウトにしてこそ、守備ですからね」
(大橋さんは2025年7月18日死去。最後の取材となった)